語りたくない語りにくいことを丁寧に語る――杉田俊介『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か #MeTooに加われない男たち』(集英社新書)

筆者の前著『非モテの品格』に続く男性論2冊目。フェミニズム、ジェンダー、クィア、メンズリブなどの理論書を参照し男性論、男性学、メンズリブの現在地点を照射しつつ、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『トイストーリー4』『ジョーカー』などここ10年以内に話題になった映画を男性性という観点から批評もしている。理論&批評の書。

タイトルにもある「マジョリティ男性」と「まっとうさ」を、丁寧に語っていく。必要なのは根気強さだ。

「男女差別は今や過去のものとなり、本当のマイノリティ/被害者は男性」なんていう言葉を聞く。あるいは「もっとジェンダー平等を押し進めるべきで、徹底できていない人/組織は問題がある」という男性からの告発も聞く。これらは本当なのだろうか。

まずマジョリティとマイノリティのあいだには圧倒的な非対称性がある。マジョリティには自分に与えられている特権を特権として認識する必要はないし、自然に認識することもできない。様々な「めんどくさいこと」を考えなくてすむ(すむように思わされている)ことが特権の特権たる所以だからだ。

さらにこのマジョリティとマイノリティのあいだの非対称性は、マジョリティにとっては「差別をする個人の心理」に、マイノリティにとっては「抑圧する制度」として実践/経験される。男女平等が実現されたと感じる男にとっては男女差別は例外的、偶発的、個人的な事象で、問題は差別するものの心理にある(と思い、自分事から切断してしまう)。他方、差別をうけるマイノリティにとっては、個々人のふるまいによって傷つけられると同時に、制度・法・慣習によっても強く抑圧される。差別をめぐるマジョリティ/マイノリティの非対称性は今もまだ、歴然とある。

しかしその上で、男性には特権を享受するために払わなければならない(払わされている)コストがあり、かつ最近、注目されるようになった男性間の格差/差異もあることは事実である。だからといって男女間の差別行為や抑圧構造がなくなるわけではないが、マジョリティ男性も複数の層からなり、複雑なアイデンティティをもっているのではないか、と筆者は指摘する。大事なのはこの複数・複雑さを、大きな主語ではなく個人的なものとして語っていこうとする努力だ。そのためには、フェミニズムが女性というジェンダーカテゴリーから論を始めつつも、やがてジェンダー一元論の徹底化を経て、その女性という概念そのものの問題(内なる差別性)に気付き、言語化し、それを女性同士の闘争のためではなく連帯のための契機へと変えた歴史が大いに参考になると、筆者は言う。

マジョリティ男性がマジョリティのまま差別構造を語ることは、特権=非対称性を維持したままになり現状の温存でしかない。かといって「男性こそ弱者」「キモくて金のないオッサン」といった男性内格差のみに着目し男性をマイノリティと読み替えて差別構造を消し去ることも、問題である。マジョリティとしてではなく、男性というアイデンティティを維持しつつ、同時に問題化する。マジョリティの中に複数のレイヤーを作っていく。そこに「マジョリティ男性にとってのまっとうさ」があるのでは、と筆者はいう。

これはとても難しいことだ。情動的な反発・抵抗があるからだ。特権を持っている人はそれが特権だとわからない。特権だと理解すること/させられることは大変だし、特権を「手放す」ことにも反発はある。また「差別をしていなくても抑圧している」「無関心でいても無関係ではいられない」という二重性(非対称性)を受け止めることも辛い。無限に自己批判・自己否定をするのではなく、さかしらに他の男性へのマウンティングの手段としてフェミニズムを使って似非リベラルを気取るのでもなく、情動的・心情的な反発・抵抗の中で、苦闘しながら自己変容していくこと。それが大事なのではないかと筆者は説く。これはある種の救いの言葉ではないだろうか。

『トイストーリー4』『カーズ クロスロード』『インクレディブル・ファミリー』をざっくり「女性が活躍する話」「ジェンダーロールの見直し」と個人的に「まとめ」ていたが、同時にどこか『トイストーリー4』の「語りにくさ」も感じていた。その語りにくさが、本書でクリアに言語化された。(2021年9月26日)

追記(2024年7月10日)

「多様性」という言葉が、肯定的な意味ではなく否定的な意味で、からかいや揶揄として使われているのを耳にした。「はいはい多様性多様性」といった具合に。言葉は難しい。どんな言葉でも良い意味でも悪い意味でも使いうる(理論的には)。「多様性」が多様性を肯定するのに使うのではなく、「多様性」が「いろんな人がいてそれぞれ配慮しなきゃならなくて、めんどくさいですね。でもそれを露骨に態度で示すと差別主義者って言われるから、それは嫌だね」というニュアンスを込めて「はいはい多様性多様性」と言うのだろう。これは前進なのか後退なのか。前進した結果のバックラッシュなのか。

人間はどこまで複雑さに耐えることができるのだろう。耐えるというか、認知的に許容できるのだろう。どうも、そこまで複雑なものには耐えられない気がする。私だって、ついつい友敵の線を引き、自分と考えの近い人たちの本を読んだり動画を見たりする。自分と異質なものと遭遇するのは、認知的な負荷が大きい。もちろん、認知的な負荷を考慮しながら本を読んだり映画を見たりするわけではないのだが、平日の労働で疲れ切った週末に映画1本見ようとサブクスのホーム画面からカチカチとリモコンで映画を探しているときに、認知的負荷(+映画の時間)と自分の体力+精神力を比べて、何を見ようかと考えていることに気が付き、そもそも映画を見る気力を失ってしまう。

私にとって考えることと書くことは、呼吸するようなものなので、疲れたから止めるわけではないのだが、いまはそう思っているだけで、これからもそう思えるのか、ふと不安になることもある。…とそれほど負荷のかかることを読んだり書いたりしているわけでもないけれど。あまり本書と関係のない、追記だ。

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