男の弱さとは弱さを吐き出せないことである――杉田俊介『男が男を解放するために 非モテの品格・大幅増補改訂版』(Pヴァイン)書評

(シミルボン2019年10月3日投稿の再掲)

『非モテの品格』(集英社新書)の書評

非モテという言葉だけではなく、男性学(男性性)についての言説において、今後、参照するべき本の一つ。

男にとって弱さとは何か? 自分の弱さを吐露できないこと。男は全体としてみると恵まれている。社会におけるマジョリティだ。(数が多いというのではなく、支配的言説を担うという意味で。)数々の指標が示すように、日本はいまだ男女差別が根深い社会であり、男には様々な特権がある。というのは前提で、しかし男にも苦しみはあり、その苦しみは支配的イデオロギーに自分が同一化しなければならない、ということから生じている。イデオロギーとのずれは「恥」とされ、感じることも表現することも、慎重に避けられる。

筆者は慎重な言葉遣いで、この男の「弱さ」を語り、ほぐしていく。女性へのバックラッシュでもなく、無限の自己否定を続けるのでもない、第三の道を探る。どうすれば男たちは弱さを語れるのか? プライドを捨てろ、というのは言い過ぎだが、自分の中の弱い部分を見つめる、受け止めることが第一。こじらせると、他人にそして自分に暴力的になるのだ。男は。人を傷つけるか、自分を傷つける(時に殺してしまう)。

第三章は筆者が携わるケアの現場から。ケアすること/されることが、私たちの社会に静かに蓄積していき、やがては社会を豊かにしていく土壌となるのではないか。「植物人間」という言葉を、アクロバティックに肯定的に読み替える試み。

注目すべきは筆者の抑制的な、しかし時に情動的な語り。論理と感情が絶妙にブレンドされている。筆者の個人的な体験があってこその語りだろう。語りとはパフォーマティブなものであり、語る前と語りおわったあとでは、主体が変化しているという当たり前の事実を思い出させる。読者も、筆者の語りに寄り添うことで、自らの内なる男性性に(女性読者であっても)変化を感じるだろう。

追記 増補版『男が男を解放するために』書評

2016年の新書に、ほぼ同じ量が加筆・増補され『男が男を解放するために』となって2023年に出版された。ここでは追加の4章、5章にも触れつつ、『男が男を解放するために』の興味深い点を紹介していきたい。

すでに『非モテの品格』の書評でも書いたが、筆者はマジョリティ(強者)としてくくられる男性たちの中にある「弱さ」を彫りだすために、慎重に言葉を紡いでいく。マジョリティたる男性は、弱者(女性)との関係で「強さ」が割り当てられるので、そのうえでどう「弱さ」を表出させるのか。単に「男性もつらい」といっては、構造的=システム的な不均衡さ・権力関係は温存される。「男性こそつらい」という逆張りは「弱者男性」の救済どころか単にバックラッシュになる。それも攻撃的な。

では、社会的な強さ/弱さから完全に切断されたところで「弱さ」があるかというと、それもまた違う。「男性の」と限定せざるを得ない。筆者が繰り返し言及するのが「交差性(インターセクショナリティ)」という概念だ。アイデンティティを複数の要素の交差する場所と考え、ひとつひとつの属性をときほぐしていく。ただし、インターセクショナリティは、ひとつひとつの属性に還元しきれないもの(残余)に注目するためのもので、すべてを要素(ハッシュタグ)に還元しようとするものではない。筆者は「存在そのものとしての弱さ」とも言う。(弱者)男性の交差性について考えていく先に、人間存在があるのだろう。

アイデンティティ・ポリティクスによる承認でもなく、再分配でもなく、第三の道、ポスト資本主義(資本主義のその先)を筆者はさぐる。承認と再分配のトレードオフではなく、「欲望(参加の政治)」。マーク・フィッシャーやナンシー・フレイザーを参照しながら、人間尊厳の根本的なおきざり、残余をどのように表出/表現していくのか。5章で提示されたこの図式は、『非モテの品格』が提示した問題をさらに深化させている。

じじつ4章は安倍晋三元首相を襲撃した山上容疑者のツイートから始まる。山上が、筆者の文春オンラインの記事への感想をツイートしているのだ。文春オンラインの記事も全文引用してある。昨今の状況は、ポスト男性学とも言われる。男性問題は議論され社会的に理解されつつある、と。男の苦しさ・辛さ、社会的な「鎧」(ジェンダー)を「脱ぐ」ことも奨励される。しかし、本当にそれでよいのか、と筆者は問う。資本主義という制度/概念は周到で、「男らしさの鎧を脱ぐ男」も、また男というジェンダーに回収する。鎧を上手に脱げる男と、そうでない男に分裂し、ともすれば男同士の「鎧脱ぎ競争」とマウンティング手段に変換される。もちろん、時にtoxicとも形容される男性性は有害/有毒で、自分で自分を苦しめるために脱げる鎧はぬいだほうが良いが、ジェンダー・パフォーマティビティなんて言葉もあるので、事態はやはり込み入っている。

筆者が3章で述懐した、ケアの現場での自身のジェンダー/セクシュアリティの揺らぎ、がヒントではないか。ジュディス・バトラー的な、ジェンダーのみならずセックス(生物学的性差)すらすべて社会的構築物とは思えないが、かといってまったくスタティックなものでもない。おそらく個々の人間が個々の状況で、具体的な経験を通じて何かしらを経験していく。その経験を、見つける/見つめること。

しかし、果たして資本主義のその後(ポスト)にたどり着けるのか。この場合の資本主義とは、経済的な社会制度だけを意味していない。抽象的な概念・イデオロギーでもある。物質的なもの(経済現象)であり、かつイデオロギー的なものである両義性を、弁証法で止揚した先にポスト資本主義の欲望が見えてくる、のか。(マーク・フィッシャーは未読なので、読む。)

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