今読み直す 伊藤計劃『虐殺器官』(早川文庫)

伊藤計劃の『虐殺器官』が発表されたのが2007年。それから早14年。あるひとが「伊藤計劃から干支も一回り」と言っていたが、もうそんなに経つのかと、改めて思う。2007年に出たばかりの『虐殺器官』で大学 SF研の友達と読書会をした記憶があるが、あれは大学在学中のことではなく、卒業後にOBで集まった旅行先かどこかだったのか、と怪しい記憶をたどる。

先日、何度目かの『虐殺器官』を読み終えたので、改めて伊藤計劃『虐殺器官』のすごいところを確認していきたい。

(1)プロット

ミリタリー SFでありFPSゲーム的にサクサク読み進められる。主人公の語り手・クラヴィスは軍人。前半は暗殺任務、後半は追跡のミッションをこなす。テクノロジーが可能にする超近代兵器は『コール・オブ・デューティー』のそういう作品を思い出した。紛争、もっといえば虐殺の現場にいつもいるジョン・ポールという謎の男の暗殺、あるいは追跡任務は、プロットとして面白い。徐々に真相に近づくも、自分たちも一枚岩でなく、最前線にいるはずだが事態の全容を掴めないもどかしさは、読者の注意をひきつける。虐殺の文法を見つけ、虐殺を伝播するジョン・ポールの動機も衝撃的である。ふつうに小説として良くできている。

(2)思索的で抑制的な語り

ミリタリーSFなのだが、主人公クラヴィスは、非常に思索的で、抑制的な語りをする。オラオラ系、アッパー系ではない。交通事故で意識を失った母親の延命治療を止めた決断を、「自分は母を殺した」と考え、他方、任務で女子供含めて「無慈悲に」殺し続けることは、仕事であり自らの決断ではなく、感情からも倫理からも切断している。一方に責任を感じ、他方で責任を感じない。クラヴィスは「人殺し」としての自分を、どうやって位置づけるのかずっと悩む。ジョン・ポールの関係者で、監視対象となり、情報収集のために接触したルツィアとのやりとりも、彼女自身からも指摘されているが「文学部」的である。これは、人類やら知性やら進化やらを考えるのが好きなSF読者にはハマるだろう。

(3)遺伝子なのか自由意志なのか

繰り返し強調される「肉の塊」としての人間像。自由意志や良心が脳のモジュール(それ自体で機能するユニット)の競合状態と定義され、兵士たちが子供兵を殺すことに躊躇いを覚えないように感情に調整を加えられることも、虐殺の文法によって虐殺のスイッチが入ることも、モジュールへの物理的な介入とされる。自由意志や意識は存在するが、ハードウェアを操るものというよりも、ハードウェアの行動に付随して生じる現象と位置付けられる。ドーキンスなら「遺伝子の専制」と呼ぶ遺伝子のくびきから、私たちはどう逃れるのか? そもそも逃れられるのか? と登場人物たちは問答する。クラヴィスの仲間の兵士も示唆に富む見解を述べる。この遺伝子vs自由意志は、共感しやすいし自分の意見を述べやすいトピックである。誰もが遺伝子を持つし、誰もが自由意志を持っている(と思っている)ので。しかしこの問題が何を意味するのか理解するのはけっこう大変なのだと思う。共感と理解の絶妙なズレが読者同士の議論を巻き起こす。

今まで『虐殺器官』で気になったのは、物語の核である「虐殺の文法」、遺伝子と自由意志の関係、痛覚マスキングと感情調整を受けたゾンビ的な兵士であった。今回読み直してみて気になったのは、テロ対策のためにあらゆる個人情報が吸い上げられ、いたるところで個人認証が求められる社会で、ジョン・ポールはどうやって「透明人間」のように存在の痕跡を消せたのか、ということだ。彼や「計算されざる者たち」という個人情報・認証反対派の活動家たちは、死人の個人情報の寄せ集め、IDのフランケンシュタイン(の怪物)だ。情報管理社会は続く『ハーモニー』で極まるわけだが、すでに萌芽は『虐殺器官』に十分すぎるほどあることは確認できた。

『虐殺器官』がベストセラーになったのは、 SFファン層以外にもリーチしたからだ。SF的にも十分すぎるほど傑作なのだが、ふだんSF読まない層にとっても、入りやすくかつ考える作品であったから、ここまでのヒット、時代区分となるような作品になったのだろう。遺伝子vs自由意志の問題は、ふるくから哲学的・倫理学的なテーマであり人文的な文脈では重要な議論であったが、それを物語として表現するには、おそらく通常のリアリズムでは足りないのだ。SFが進化心理学を語るためのリアリズムとなった瞬間であったのではないか。

進化心理学と書いたが、認知科学的な要素もある。インプットを情報処理しアウトプットする機械と考え、どこまでも即物的に人間の行動を記述していったときに、「情報処理を情報処理しているこの自分」というメタ構造にたどり着く。クラヴィスも同種のメタ構造に自覚的なシーンがある。このメタ構造は、古くはポストモダニズムの特徴として挙げられる再帰性や自己言及性なわけだが(もうポストモダニズムも「古く」なってしまった…)、言われ始めた時よりももっとずっと即物的・物質的・科学的・具体的なものとして、当たり前で身近なものとしてある。少しややこしい言い方になるが、ポストモダニズムだ再帰性だともてはやされた時は、自己言及すること自体が珍しい、実験的なことであった。ところが、今やそれが当たり前に社会に実装されているので、それを描いたところで、珍しくもないし実験的でもない。ぜんぜんポストモダニズムではない。伊藤計劃の新しさとはテーマが新しくなくなったことに新しさがあるのかもしれない。(2021年3月14日)

追記(2024年7月5日)

「伊藤計劃、円城塔、冲方丁、小川一水など」に続く作家を発掘するハヤカワSFコンテストから出た作家の作品は、どこか伊藤計劃を連想させるところがある。伊藤計劃が描き出した問題を乗り越えようとしているのか、乗り越えられていないのか(同じ構図に収まってしまっているのか)。人間には理性的な部分と感情的な部分があり、理性的な技術で感情的な部分を管理しようとする(痛覚マスキングやハーモニープログラム)。完成するのは、理性的に調和した世界であり、感情的な摩擦は消滅する。これを、人間性の喪失と嘆くのか、それとも人間性の超克と誇るのか。ただの人間である私は、理性的なものと感情的なものの両方の絶妙なブレンドが人間たるゆえんだと思うので、理性的な介入・管理には反発を覚える。しかし、介入したくなる気持ちもわかる。理性の価値や意義も理解しているつもりだ。…という問題系の枠組みを、どう組み直せば良いのだろうか? これは『ポストヒューマン宣言』から『ディストピアSF論』に引き継がれている裏テーマである。ポストヒューマンとディストピアは、表層的には異なるSFテーマかもしれないが、深層部ではつながっているのだ…!



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