市場主義が拡大していく現代社会ーーマイケル・サンデル『それをお金で買いますか』早川書房

『これからの「正義」の話をしよう』で一時期話題になったマイケル・サンデルが市場主義の道徳的限界について論じている。

何でもかんでも価格がつけられ市場で自由意志に基づき取引される社会は、経済学者の視点からみれば売る方も買う方も得をするので、そのモノが市場に出ることは「幸福」の増加になる。市場原理主義への批判は2つある。1つは公正さに関するもの、もう1つは腐敗に関するもの。市場の競争は参加者が平等なスタートラインに立っている場合に成立する。「それを売りたくないのに売らなければならない人」も現実にいる。市場での取引が、そのモノを手に入れるべき能力を持った人を見極める手段として機能しているように思えるが、支払い能力の有無と、そのモノの所有者としてふさわしいかどうかは別ものである。

公正さとは別の水準で、そしてより本質的な市場主義の道徳的限界となるのが、腐敗である。本来、売買するべきではないものが売買されることで、私たちが従来もっていたそのモノへの態度が変質(それも劣るほうへの変化)する事態を指して、サンデルは腐敗という。本書が興味深いのは、「え、そんなものも?」というような具体例を出しながら、かつてであれば市場で取引されることなかったものが、モノ=商品として流通し、それにより人々の考え方が変化したと示す。遊園地や病院のファストパス、ダフ屋、取引可能な出産許可証、二酸化炭素の排出権、希少動物保護のための有料ハンティング、ギフトカード、生命保険、プロスポーツグッズ、スタジアムの特等席(スカイボックス)、命名権…。

「金で買えないものを金で買う」と聞くと、人間の身体・生命に関するもの、たとえばセックス、臓器、子供がすぐに思い浮かぶ。が、サンデルの議論は射程がもっと広い。スポーツの試合を実況するアナウンサーはスポンサーの商品名を、特定のシーンで挟まなければならない(!)なんて事例も紹介される。私たち自身と、私たちの身の回りが、どんどん商品化され、広告となり、市場で売買される。売りたいものが適正な価格で欲しい人の手元に届くという、需要と供給を自動で調整する市場の機能は、万能である…ようにみえる。価値中立的である…ようにみえる。実際は、私たちの共同体主義的な「善」を破壊し、腐敗させてしまう、とサンデルは言う。

おそらく、市場取引は、共同体主義よりもあとに成立している。人間の本能に根付いていない、抽象的な概念=倫理なのだろう。だから、もっと生得的で原始的な共同体主義的道徳と、食い合わせが悪い。経済学者は「インセンティブの設計さえすれば人間の行動をコントロールできる」と(傲慢?)にも主張するが、この発想に欠けているのは、「人間は成長する存在である」という視点だ。外山健太郎『テクノロジーは貧困を救わない』でも指摘されていたが、政策パッケージの「万能さ」を崇拝するのは、人間を刺激(インセンティブ)に反応するよくできた認知コンピューターと考えるのと同じだろう。

市場に出す前に、それを本当に市場に出して良いか共同体で議論する必要がある、とサンデルは言う。地球温暖化への国際的な取り組みとして二酸化炭素の排出権取引が認められているが、サンデルも言う通り、ひとたび排出権取引を認めると、今の生活を見直すことなくお金さえ払えば「二酸化炭素を削減したこと」になる。「どのような生活をすれば、皆で地球に暮らせるか」という議論は迂回される。なるほど。共同体を支えるためにすることは、値段をつけてはいけない。のだが、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』ではないが、公共性がある仕事だから不当に給料を低く据え置かれる社会ってのもあるので、実に難しい。

なお、サンデルは新自由主義(ネオリベラリズム)という言葉をいっさい使っていない(Kindleで読んだので、検索したが、1件もヒットしない)。新自由主義という言葉がファジーなので、なんでもかんでも新自由主義とまとめないほうが議論が深まるとも言われる。サンデルは市場主義、市場勝利主義という語を使っているが、何でもかんでも値段がついて市場取引される現象を批判する場合は、新自由主義ではなく市場主義・市場勝利主義という語をつかったほうがしっくりくるだろう。


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