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育った自我の話

私は大学生になるまで、というか大学生2年生ぐらいまで、人よりも自我がないほうだと思ってました。

ほんとうに、なんでもいいこともたくさんありましたし、決定権を持つのが怖くて流れに乗ることしかできなかったこともありました。

でも、最近「自我がない」というよりかは、自分の置かれた環境や社会のルールとか規範とか固定概念とかでつくられた「普通」から逸脱したくないという気持ちの方が強かったのかもしれないな…ということを強く感じます。

ひっぱり出された自我

幼少期の時には、近所の人たちに見守られて(?)ちょっとでも違うことをしたら、すぐに噂がまわって訂正されるようなところに居ましたし、中学校の入ってからは、まあ今思い返せばほぼいじめに近いようなことも受けてたし、自ずと人と違うことをすることが悪だと刷り込まれていたわけです。

高校生になってやっと、周りの人を選ぶっていうことができて、趣味とか好きなものとかが似てる人たちと過ごすことはできたのですが、まあ、基本的には人に合わせるってことをしてました。

ただ、大学生になってから、所属している学部の教えや、某八尾の社長さんたちと一緒にいるうちに、今まで引っ込められた自我を急に求められて、その環境を選んだのは、私であり、前向きに進んだつもりだったのに、しんどかった。

そりゃあ、そうですよね。今まで自分の意見を言うトレーニングをしてこなかったから。嫌がらせをされたときも、怒りなんて湧かなかったんだから。笑

でも、意見を求められるうちに、ちゃんと考えて、考えたらこの人の意見とは違うわ、とか、私はこう思うとか、わかるようになって、いろんなことにアンテナが立つようになった。

そしていま、いろんなことに愛も持ったし、怒りも持つようになった。ちょっと苦痛だったけど、ただ潤滑に行くわけでもなくなったけど自分の意見を持ち始めた今の自分のほうがが好き。あの時に、この環境を選んだこと、間違いじゃなかったなあと、本当に感謝だなあと。

染まりやすい中の自分

私は、染まりやすいです。厳密には、染まってるようには見えやすいです。

環境の求めてることとか、何をすれば好かれるのかとか、めっちゃ考えるし、だからこそ傍から見れば順応できているようにも見える。

でも、最近たくさんの人に出会うし、いろんな考えがあるんだなあ、ということは感じるんですけど、どこか全振りで染まれない。

かといって、その人たちと離れてみて、自分が普段あってる人達にはどう思われるか怖くて話せないこともある。もどかしい、中途半端な自分が苦しい。

でも、それが自分なんだろう。気持ち悪いけど、どっちにもいけなくなったのが自分。離れて今の自分を観て、どっちの部分もあるな、極まではいけないなっていうのが自分。でも、みんなそれぞれ大事で、愛するところがあって。

このノートを読んでくれても、きっと意味わかんないだろうけど、この気持ち悪い今の自分を残しておく。

今すべきこと

今日のノートのテーマは「自我」なんですけど、このノートを書こうと思った理由って「選挙」と「選挙に対しての発言のしにくさ」について思うことがあったからです。

このノートを見てくれてるほとんどが、同世代だとは思いますが、日曜日はちゃんと予定空けてますか?

選挙の公約とか、たくさん見ました。どっか、「ほんまかいな」「絶対嘘やん」「口だけやろ」みたいな気持ちもあって、本当に実現されるか怪しいこともあるな、、、って思うこともあります。

でも、その公約が守られなかったとして、それって、私たち国民が今まで声を上げずにいたから、自分の意見を票に変えなかったから(もしくは無関心だったから)、政治家さんたちになめられた結果だなあ、とも思うわけです。(断じて容認しているわけではない、公約は守るべきである)

今回の選挙は、安全にかかわる大きな選挙です。憲法に関して、いじらなきゃいけないところはたくさんあると思いますが、そこを無視して、怖いとこ変えようとしてるよね?

選挙について発言する時、誰におびえてるのかわからないけど、なんか怖い。でも、ちゃんと声を上げなきゃ。発砲するとかじゃなくて、ちゃんと一票を投じなきゃ。

きっと、私みたいに自分の意見を言うこと、なんかの力でできなくなちゃってた子もいるかもしれません。まず、今回の選挙で「自我」を一緒に票に表してみませんか?



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