知らない弟
人魚姫が男の場合、彼をなんて呼べばいいんだろう?
春鹿(ハルカ)は午前中の講義をノートにとりながら、まったく集中できていなかった。
外はうすく雲が張り、雨模様とはいかないまでもシクシクした湿り気がある。ほんのりしたグレー色がグラデーションして遠景をぼやけさせた。春鹿は、地元の港町を思い出す。こんな風合いは海辺の街のようだったから。
カリ……、春鹿のノートに「人魚男」と書き込みがくわわる。ぼんやりしながら桜の散ったあと、新緑に息づいた桜の木を、目にかける。そう、桜が散るようだった。
春鹿は夢を視る。なんども。同じ設定で、同じ男の夢だった。いつも彼は弟として春鹿にくっつき、夢ごとに設定はちがえど弟であることは変わらず、いつも同じ男である気がする。
気がする、というのは、夢の内容と男の存在は覚えているのに、彼の顔は覚えていられないからだ。どうしてか忘れてしまう。思い出せない。けれど、夢で出逢うとまた、ああ、わたしの弟だと受け入れて、夢のなかでは男はずっと春鹿の弟だ。
現実の春鹿には、弟はいない。ただ、昔、春鹿の母が流産をした。実家には、水子供養の札が、祖母たちと一緒に仏壇にあげてある。春鹿は夢をみてしばらくするとその事実をいつも思い返す。
グレーがかった記憶の向こう、あちらとこちら、決して通れないせまい通路を感じる。夢を視る、夢に視た、だからといって春鹿にはどうすることもできない。通路は一方通行で春鹿が目覚めてしまうともう霞がかって、どこからが夢であったのか、境界線がおぼろげになる。男の顔はどうしても覚えていられない。
人魚姫の面影を覚えてそれを追いかけた、童話の王子様なぞを連想する。王子は、こんな気持ちで人魚姫を追いかけたのだろうか。
カリ、とまたシャープペンを走らせて、人魚男の真上から線を引く。横線を何本もかけて人魚男をバツにした。
(探したい、なんて、思うなんて、どうかしているわな……)
姿がわからない、でも存在は感じる。知らない弟。春鹿の弟。春鹿の大事な人のような気がする夢の男。
散ったあとの桜の花の幽霊みたい、そう考えて、浅く深呼吸を吸ってから吐き出した。講義に集中しなくちゃ。テストがあるから、現実があるから。現実があるから。
浅い夢を今日も置いてきぼりにする、僅かながらも尖った罪悪感が、今日もまた春鹿の胸をチクリと刺した。
END.
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