手書きの寿命

墨を擦って墨汁を貯めて、ひらたい筆にこれを染み込ませる。うすい半紙にするりと描かれる怪異は、体半分が巨魚でもう上半分が乳房のおおきい人間の女性である。髪は明るく、塗りつぶされずに流麗な毛のながれだけが筆先で飾られた。

妖怪の姿を写したものだ。妖怪は人魚。古くから伝わる、不老不死の怪物である。

妖怪絵師はもう何百回も人魚を描いてきた。今年で齢九〇を超える絵師は、早朝から起き出して、誰にも気づかれずに人魚に着手する。アトリエの奥でひそやかに開かれる、一週間に一度の儀式であった。これこそが、絵師にいわせると、長寿の秘訣であった。

人魚を描きおえた絵師は、これを両手にして見下ろして、完成度をみずからの目で測る。これぞ、となってから、人魚の目に墨を入れた。艷美な女と生臭そうな魚の妖怪ができあがる。

と、絵師は、半紙を折畳んでこれをちぢめる。

はぁんむ。大口を開けて、人間の洞窟のなかへと半紙を招き入れた。口内にしまうと水で流し込んで妖怪・人魚の墨絵を食べてしまった。

真なる怪異とは絵に描くだけでもこの世ならざる冷えた空気を生み出すものだ。絵師の胃袋が氷を飲んだように凍えた。指先がカタカタして悪寒に見舞われる。

だが、一週間に一度、毎度のことだ。墨絵師は妖怪描きとして名の知れる男だ。

絵師に秘密は多い。絵師は当分、死ぬ気がなかった。人魚をいくらでも描いては食うぞと朝餉の前の儀式を終えて、コップ一杯の水を飲んで、ひとごこちをついた。

無数の人魚が産み出され、また喰われてきた。妖怪喰いの妖怪絵師。彼の描く妖怪は、まるで生きているように、目がらんらんとしている。あでやかな迫真性がある。彼が喰ってきた妖怪の分だけ、迫力があった。

ある雑誌記者が『長寿の秘密は?』と絵師に尋ねる。絵師は卑屈なうすわらいで答えた。

「無数の妖怪に取り憑かれてとるからじゃな、あと朝のコップ一杯の水のおかげだ」

絵師は、今日も朝餉のまえに描いた人魚を喰ってきた。


END.

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