科学者の妻の不機嫌すぎ

科学者が恋をした。DNAのらせんを専門とする彼は、水槽に入れられた人魚姫をひと目見て、恋に陥ってしまった。

露わになった豊満な胸など、ほかのスタッフは揶揄することが多いが、そんなことより瞳のうつくしさ。瞳に星を詰めたよう。きらきらと万華鏡が如くかがやき。科学者はすっかり魅せられてしまった。

科学者は、名を馳せるだけあって、行動力は抜群だった。やがて彼は人魚姫にこっそりと話しかけ、こっそりと脱走の相談を持ちかけた。独りきりになるとどうやってこの施設から彼女を逃すか、万能の頭脳をもちいて計算する毎日を送った。

「心配しないで。君を解剖なんてぜったいにさせるもんか。金魚にだって。必ず、僕が逃してあげるからな」

水槽の人魚姫は、目を丸くして、科学者をまじまじと見つめてくる。

ある夜更け。科学者はついにやってのけた。独りきりの別のスタッフを襲って、人魚姫はおんぶして、施設から脱走した。このためのジム通いが役に立った。
人魚姫は、かくして海に戻されて、科学者の恋は終わり、人魚姫も幸福を取り戻した。
……かに、思われた。

科学者は、自らの目を疑った。
施設の前に、裸の女が棒立ちしていたからだ。彼女の瞳を見て、それがあの人魚姫と科学者はすぐにわかった。どうしてこんなところに!? それに、なぜ、人間の姿を!?

科学者が慌てて車に女を押し込む。彼女は、むくれた頬をして押しだまる。

と、科学者は思い出すのである。人魚姫のおとぎ話。人魚姫は、人間になれる代わりに声を失うとそこでは記されていた。
ノートとペンを渡し、どうにか意思疎通を試みてみる。女は日本語はわからなかった。しかし、海の言葉をそこに書いた。

科学者は、科学者なので、そちらの解読がかろうじて出来た。今日ほど勉学を積み重ねてよかったと感じた事はなかった。科学者が読み取ると、こうである。

『すいそうの』

『なかのほうが』

『楽だった』

『えさの心配もない。気ままに浮いてるだけでいい。海は慌ただしいから、しずかで楽な生活に戻りたくて帰ってきた』

科学者は吃驚仰天して声を失った。頭が真っ白くなり、数式をいくつか永遠に忘れたような気がした。

かくして、女は科学者の自宅に連れ帰られ、やがて科学者の妻となって国籍を得た。外人の移民、失語症の女として。

類まれなるうつくしさ。女と呼べぬほど、女神のようなうつくしさ。

ただ、科学者の妻は、ずうっと不機嫌そうに眉をあげている。神経質に目を細める。色白の肌とあいまって何かの霊的な存在を思わせるほど。あまり笑わない。氷像のような女神であった。

妻の不機嫌の理由は、科学者にはよくわかっている。
水槽に帰さなかったのだから。

科学者は、ひとまず、と述べて女を妻にした。科学者のみせたエゴであった。今、彼は、自宅に巨大なプールを建設すべく、妻のために働いている毎日である。
科学者にすると、まあ、まあまあ、ハッピーエンドではある。妻にしたら、ちょっとだけ違う。

なにせ、終始、不機嫌な妻であるから。


END.

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