ニンギょ? 知らないけど

ニンギと、言った。意味はわからない。しかし海から来た女は下半身に魚類のうろこが生えており、足のさきに水掻きがあった。魚の後ろ身頃が二股に分かれて、人間を模倣したかのようだ。

ニンギ、にんに、ニンギ、にんに、舌足らずに女は自己を物語る。整ったかんばせを細い人差し指で指し、己をあられもなく見せながら「ニンギ!」と、名乗った。

下半身は異様であるが、上半身は、うつくしく豊満な肉体美をもった女性のそれ。

ぼくは。

「人魚だろ? ニンギョと言いたいんだろうな?」

海からの来訪者に尋ねる。

浅瀬に立ち、それは朗らかに笑っている。怪物のくせに。

「ニンギ……」

幅のせまい、くちびる。鳴き声を言う。ぼくは、あばら家脇の物置にざっくばらんに置きぱなしにしている道具から、斧を取った。錆付き、潮に傷みきったたんなる鉛の塊であるこれを片手に携えて海からの使者に走る。

うおおおお、知らずに吠えた。犬のように。ニンギ、と、最後までそれはそう言った。ニンギなんてものは、知らない。ニンギって? なんだそれ?

しかし人魚は知っている。不老不死の妙薬になると謳われる伝説の存在。ぼくは昔、人魚らしきなにかに、命を救われた。嵐の夜に。海の真ん中で。キスを受けた。人魚の唾液をくちにした。ぼくは、それからは、ずっとここで海の番をやっている。もう200年は過ぎただろうか。ぼくは死ねない。なにやら、知らないうちに気に入られて、キスされて、そして捨てられたぼくは永遠の刻を放浪する子どもになった。ゆるせない。

人魚などゆるせない!!

だからぼくは斧をにぎる。ニンギと名乗るそれは、かつてぼくにキスした、あの怪物なのか。これほど悠久の刻をかけて、人間のような両足を手に入れて、やっとぼくを迎えに来たのか。やっとぼくを、捨てたぼくを、拾いに来ているのか?

しかし、200年間は、ぼくが頭をおかしくしてしまうには充分な地獄だった。ぼくは斧を両手にかかげて走った。ニンギは、笑ってぼくを、見上げた。

結果を先に言えば、斧で頭を割ってもニンギとやらは死ななかった。血を流しながら笑ってぼくを抱きしめた。ぼくは、眼球をくり抜かれたみたい、熱くて痛くて激痛が目の裏を血走って気づけば涙している。ニンギとかいう、よくわからないものに、泣かされる。

ニンギはもう何も言わず、頭に斧を差したまま愛おしそうとすら思える手つきでぼくを抱きしめた。ぼくが泣きじゃくり、涙が枯れるまで、ずっと。ずっと。朝焼けの海が暮れのき、夜のとばりが落ちる。夜の海が来る。

最後を言うと、ニンギとやらは、ぼくの妻になった。

相変わらずニンギとかしか言葉にしない奇人であるニンギを、ぼくは、ぼくの小屋に許容することにした。

ほんとうに200年越しの迎えなのか、嫁入りなのか、ぼくにキスしたあの人魚なのか、それはもう多分永遠にわからないことだろう。

おかしな、可笑しな話だ。


END.

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