祖父の記念note

個室の老人ホームに足を運ぶ。母や父とは疎遠で、チカはおじいちゃんに育てられてきた。だから母と父によりおじいちゃんが老人ホームに送られても、一ヶ月のうちの2回ほどは顔を出しにきている。

チカにすると、ふしぎな場所だった。まだ高校生の制服を着ているチカのような世界だとも感じた。同年代の者が集められて講習を受けたり給食を食べたり、お昼休みとかんたんな授業をずっと続けていく毎日がここにある。

はじめは、家を追い出して老人ホーム送りに決めた母と父を憎んだけれど、今はチカはこれもおじいちゃんには合っていると思う。チカだって、学校は楽しいから。テストや切実な進路問題、掃除の時間もないこの場所は、楽しいところだけが切り取ってある特異な学校みたいに思えた。

それでも、老人ホームに入所してから、チカのおじいちゃんはボケはじめてきた。自分で生活していたころの覇気のあった精悍な顔つきがふにゃんとして、目つきがダレて、しまりのない老人になってきてしまった。月に何度も通うチカだから、その変化がわかる。

チカはおじいちゃんのノートを作ることにした。テレビで、今は亡きお母さんの料理レシピノートなんて感動話をやっていて、おじいちゃんの戦後の話などちゃんとまとめたいと思ったのだ。

「ワシの記録ぅ? チカは変わっとるなぁ」

「私がもっと大きくなったら、本にまとめるかもしれないよ。おじいちゃんの話いっつも面白いもん」

「ワシの本か……」

よぼよぼした声色が遠ざかる。ホームのベッドで体半分を布団にいれているおじちゃんは、自分の下半身を見下ろした。チカが何度も聞いている話を、しはじめた。

「やっぱありゃ、人魚つうやつだったと思うんだなぁ。あんとき、食っとくべきだった。女の上半身がついとるから、ワシ殺せなんだよ、情けない話だよ。殺して食っておけば、アイツらんとこにオマエを残してこげな老人ホームに強制送還されるコトもなかった」

「そうそうその話。イチから話して、おじいちゃん。その話、ぜったい貴重だよ!」

「あれはアメリカ軍がきちょって食糧難が酷いころでな、ワシは日がな海で食えるもん探してた」

「イチから、話して、おじいちゃん!」

おじいちゃんをモデルにした伝奇だって書けるかもしれない、チカの気持ちが早る。

おじいちゃんはつと懐かしそうにチカを見つめた。今、見つけた、というふうに。

人魚なんて殺して食えばよかった、ご老人は連続性の欠けたとりとめのない口調で悔恨する。やっぱりチカが何度も聞いた話をまたした。だが、チカは、おじいちゃんにそう言われることがうれしかった。胸が締め付けられて切なくなった。もし、タイムトラベルなんてファンタジーが実現するなら、タイムパラドックスなんて無視してチカはその通りのことがしたかった。

チカの宝物は、おじいちゃんが若いころの写真。白黒でぴっちりと黒髪をまとめている、精悍な若者が写っている記念写真だ。

「チカぁ……遺していってすまんのお……。はよアイツらから逃げるんだぞ、オマエの親は鬼畜どもだぞ。ワシが、人魚さえ食ってトシとらんようになってたら、チカを攫ってチカと結婚してチカと暮らしてたわ」

「うん。おじいちゃん」

チカにとって、たったひとりの男性は、物心ついたときからずぅっとおじいちゃんだった。

チカも思う。人魚なんてファンタジーがもし本当にあるなら、今すぐおじいちゃんの胃袋に飛び込んであげてよ、と。

チカの父はすぐ手をあげる酒乱で、母も酒乱でふたりともパチンコが大好きで生活保護と祖父の年金をあてにして生きている。チカは施設と学校と老人ホームを、行き来している。

だから。

だから、おじいちゃんの記録ノートが必要だし、おじいちゃんが昔見かけたという人魚の命が、欲しかった。おじいちゃんが人魚を食べて不老不死ならどこまでも一緒に逃げたかった。一日、一日が、チカにすると祈りの毎日だった。

おじいちゃん、私を置いていかないで。


END.

読んでいただきありがとうございます。練習の励みにしてます。