見出し画像

【小説】木になる話

 いつの頃からか育てている一本の木が、折れた。一番大きな枝に見える幹が折れた。数年前までは木の育て方を教わっていたけれど、もう一人前と認められてから、初めて折れた。今までも風が吹いたり、雪の重みだったり、もしくは大雨などで小さな枝がポキポキ折れていくことはあったけれど、こんなに大きな枝、というより幹が折れたのは、木を育て始めてから初のことだった。小さな枝が折れた後は、慰めてくれたり、補修の仕方を教えてくれたりする人がいたけれど、今はもう一人でやらないといけない。やらなきゃいけないとわかってはいるけれど、何から手をつけたらいいのか分からず、私は途方に暮れていた。

 その状態がもう一年も続き、私は未だ何もできないままでいる。

 木は私が何もしなくても、たまに降る雨を吸って生きていた。痛々しい傷痕を残したまま、その付近から新しい細い枝をいくつも伸ばしていた。なんて強いのだろう。何もできない日々の中で、育てられなくなった木を見つめるたびにそう思っていた。木が私を勇気づけているような、そんな錯覚さえ芽生えた。

 今日も外を見ると、晴れた空の下、私の木が新しい細い枝を風に靡かせていた。そんな木に励まされるように、私は一年ぶりに外へ出た。久しぶりに栄養剤でもかけてあげようと思い、店へ買いに行くのだ。行く道は、地図を見ながら久しぶりの外界を新鮮に感じていた。一番安い栄養剤を買って、脇に抱えて帰った。帰り道は来た道を戻るだけなので、地図は必要ない。行く道を見上げると、至る所に立派な木が生えていた。幹がまっすぐ伸びた木。いくつもの太い枝を生やした木。たくさん果実を実らせた木。こういった木に比べて、私の木はなんて惨めなのだろう。そう思わずにはいられなかった。私の管理不行き届きで折れた幹、もっと大事にマメに手をかけていれば折れずに済んだのかもしれない。折れた後も一年もほったらかしにしてしまった。なんて可哀想な木。私は部屋の中でグルグルと思い悩んでいたことをフラッシュバックして、再び後悔に押し潰されそうになった。まだ今でもあの木を私の木と呼んでも良いものだろうか?帰ってあの木に顔向けできないような気がした。

 遠回りして帰ろうと思い、少し道を逸れた先にあったのは、大きな庭付きの家だった。ブロック塀からいくつかの木が見えている。その中で一際目を引いたのが大きな松の木だった。いくつもの太い枝が一本のまっすぐな幹から垂直に生えていた。落葉の季節なので松葉はついていないが、幹だけでも立派だとわかった。さらに上を見上げると、幹が不自然な太さで終わっていた。おそらく切られたのだろう。私の木の幹は私の預かり知らないところで折れたけれど、この松の木は主人によって切られたのだろう。ここまで大切に育てられたけれど、ここまででいいといって切られたのだ。幹が切られてもなお、この松の木は立派だ。

 視線を下げると、今度は幹が大きく曲がったこれまた立派な紅葉の木を見つけた。紅葉の紅が美しい。この木の幹は曲がっているが、それが味になっている。長い年月をかけてゆっくり曲がっていってこの形になったのだろう。今まで太くまっすぐな木が素晴らしいと思ってきたが、こういう木も悪くないものだと感心した。

 幹を切られても、幹が曲がっても、美しい木はある。そう思うと、私の木もまだまだ捨てたもんじゃないと思えてきた。あの庭の木になるには、後何十年もの歳月が必要だろうが、平均寿命から見ると、私にもまだたくさんの時間が残されているはずだ。長い人生で見たら一年なんて七十か八十分の一だ。木もこれから長生きすれば、きっと忘れてくれるだろう。帰ったら栄養剤を撒いて、明日は新しい細い枝を剪定して伸びてもらう枝を決めよう。そう心に決めると、自然と足が家の方向を向いていた。帰ろう。

 私の木はどんな木になるんだろう?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?