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何かしていないと不安になる人は、何もしないで心地良くしていられる人の邪魔をしてくる

人はそれぞれ違う存在です。人はそれぞれ違うのだから、何に価値を感じるかも、人それぞれ違います。「私はより良い社会を作っていくことに興味があります」という人もいれば、「私は半径5メートル以内のことしか興味がありません」という人もいます。「できるだけ多くのことを成し遂げたいんです」という人もいれば、「できるだけ何もしないでラクをして生きていきたいんです」という人もいます。

それぞれ違う価値観をもっている人達がうまくやっていくためには、自分と違う価値観をもっている人を受け入れることです。「私が社会を変えることに夢中になっているように、あの人も半径5メートル以内を快適にすることに夢中なんだな」「私が多くのことを成し遂げたいと思っているのと同じぐらい、あの人もラクをして生きたいと思っているんだな」と、相手の価値観を尊重することです。

暇であることに価値を置いている

私は、自分を暇にしておくこと、自分を忙しくしないことに価値を置いています。なぜなら、心に余裕がないと、感じることができないからです。私は生きることは感じることだと思っています。だから、忙しくなりすぎて何も感じない状態にならないように気をつけています。

私は恐怖を感じないように目をつぶって突き進むよりも、しっかりと現実を捉え、恐怖を感じるほうを選びます。不安を感じないように感覚を麻痺させるよりも、敏感なまま不安を感じるほうを選びます。私は人生は感じるものだと思っています。なので、自分の中に湧き上がる感情、心の揺れや動きや状態を感じれば感じるほど、豊かな人生になっていくと考えています。

自分を暇にすることで、心の余裕が生まれる

また、自分を暇にしておくことで、人を助ける余裕をもつことができます。忙しくなりすぎると、周りにいる困っている人に気づくことができなくなります。つらい思いをしている人を見つけても、「こっちはやることがたくさんあるから、相手にしている暇はない」となってしまいます。

私は自分を暇にしているので、困っている人に気づき助けることがよくあります。たとえば最近で言うと、迷子になっている子どもに気づき、一緒にお母さんを探しに行ったり、電話ボックスから出られなくなっている子どもに気づき、ドアを開けて外に出してあげる、ということがありました。オートバイのエンジンがかからなくなって困っていた女の子に声をかけられたときは、オートバイをガソリンスタンドまで引いていってあげました。

また、日本語があまりできなくて友達がいない留学生や、出稼ぎに来ている外国人の苦労話を聞いたりします。「英語しかできなくて悩みを相談できる相手がいない」という人の話を聞いたりします。お年寄りが横断歩道を渡っているときは、「イライラしている運転手に煽られないか」「途中で転んだりしないか」と心配しながら、安全に渡りきれるまで見守っていたりします。

私は自分のやりたいことを実現するために、意図的に自分を暇にしています。そして、忙しく頑張っている人に対しては、「この人にはこの人の叶えたいことがあるんだろうな」と受け入れています。

人によって価値観は違う

私が自分の話をすると、「お前は暇でいいよな」「毎日が日曜日みたいだな」と、褒めていないような感じで言ってくる人がたまにいます。「お前は人生をなめてるのか」ぐらい、不快感を示す人もいます。

そのような人は、積極的に人と関わり、向上心をもってアクティブに行動をすることに価値を置いていたりします。休日の日は、早起きをして運動し、健康的な食事をしてから、セミナーや勉強会に参加したりします。そして夜は、仲間と飲んで近況を報告し合い、大いに盛り上がります。

このような話を聞くと私は単純に、「すごいね」「楽しそうだね」という感想をもちます。しかし、そのような活動的な人の中には、私の生活態度が許せない人がいたりします。「昨日は昼ぐらいに起きて、サイゼリヤでピザ食べてワイン飲んで、家に帰ってきてもう一回に寝たわ」「目が覚めたら夕方だったから、中華料理屋に行ってビールを飲んだわ」などと言うと、突然不機嫌なり説教してくる人がいます。

そのような人と私には、「充実した人生を送りたい」「有意義な時間を過ごしたい」という共通点があるから、本来は気が合うはずです。それなのに、その人が私を批判せずにはいられないのは、「どんなことに価値を置くかは人によって異なる」ということの認識が足りないからです。

みんなが違うことをするのは当たり前

充実させるとは、自分の好きなことをして自分を満たすということです。有意義なことをするとは、自分にとって意味のあることをすることです。自分の好きなことも自分にとって意味があることも、人それぞれ違います。だから、充実した人生を送るため、有意義な時間を過ごすために、それぞれが違うことをするのは当たり前のことです。

世の中には、予定がないと不安になる、何もしていないと罪悪感を感じる、という人がいます。そのような人は休みの日でも、予定をたくさん入れて動き回ります。そして、予定通りに行かないと焦ったり怒ったり、自分や他人を責めたりします。身体を休めるとは、働くことや活動をやめる、ということです。心を休めるとは、高ぶった心を鎮める、心を穏やかにする、ということです。

それなのに、忙しく動き回りイライラしていたら、何のための休日だかわからなくなります。もちろん、休日でも刺激を求めて動き回るのは悪いことではありません。しかし、そのような生き方が好きな人もいるけど、ゆったりとした休日を過ごしたいと思っている人もいる、ということを忘れてはいけません。

自分にとっての充実と有意義を貫く

忙しく動き回っている人の中には、ニートや引きこもりを過剰に問題視する人がいます。「働かないなんてありえない」「お金を稼がないなんてありえない」と否定する人がいます。そのような人は、「働くことに価値がある」「お金を稼ぐことに価値がある」という考え方にとらわれて、それ以外の価値を認められない状態になっています。

すべての人がお金を稼ぐために働くことにしか価値を感じられなくなったら、この世界はとても退屈で怖い場所になってしまいます。働いていなくてもお金を稼いでいなくても、誰にも迷惑をかけていなければ、それも人生の選択肢として認められるべきです。「充実した人生を送りたい」「有意義な時間を過ごしたい」と思うのは自由ですが、「あなたも私と同じことをしなさい」と他人に押し付けてはいけません。

また、うつになった人に対しても、「もっと充実した人生を送りなさい」「もっと有意義な時間を過ごしなさい」と強要する人がいます。抑うつで何もできなくなった人に対して、「お前には存在意義がない」「お前は社会的に無駄な存在だ」といった態度をとる人がいます。

心が疲弊した人にとっての充実とは、回復するために休むことです。心が疲れ切った人にとっての有意義とは、何もしない自分を許すことです。それなのに、うつを克服するために適切な判断をしている人に、「お前はラクをしているだけだ」「お前はサボっているだけだ」と攻撃せずにはいられない人がいます。

ということで、「人によって何に価値を置くかは異なる」ということの重要性を認識できていない人に、あなたの生き方を否定されることがあるかもしれません。そんなときは、「あなたの価値観を私に押し付けないでください」「何に価値を置くかは私が決めることですから」と思うようにしましょう。そして、「私は自分にとって充実した人生を送ります」「私は自分にとって有意義な時間を過ごします」と、堂々と自己満足を求めていってほしいと思います。

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