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夢への態度は人それぞれ

「ママだって夢を諦めない」
「ママこそ自分を大切に」

ママになって5年、このような言葉にどうしてか違和感があった。
5年間の違和感を因数分解してみようと思う。

「ママだって」「夢を」「ママこそ」


どうもここら辺に違和感があるらしい。

「ママだって」「ママこそ」の違和感


あくまで一個人の考えなのだが、別にママに限定しなくてもいいんじゃねえのかというのが私の考え。

パパだって、じぃじだって、これからママになりたい人だって、別に夢見たっていいし、好きなことしてもいいんでねえの?と思っている。(もちろん家庭内調整とお互いの理解と敬意は必要)

夢を見なければならないのか?


ママになった途端に夢ができるものなのだろうか。

いや。たしかにね、私も産後適応障害になったので、こんな苦しみ味わうママが減るにはどうすればいいか自分にできることはないのかと考えた。

息子が三次医療機関(紹介状ないと入れない病院。イメージ大学病院に近い)に入院した時も、長期入院の親御さんを支えるには私には何ができるのかと真剣に考えた。
(考えた結果、少額の寄付と子どものケアをと思い私のヘアドネーションから小児用ウィッグを作ってもらうため髪を伸ばしてる。)

どのママも、いや、パパもじじばばも高校生も「どうにかできないかな」と思ったことはあるだろう。それ自体は素晴らしいことだと思う。

しかし、しかしだ。
夢がないママだっているんだよね。

ママ=夢があるけど家庭のこともあって諦めがち
だけではない。


夢がそもそもない、見つけられてないママもいる。
そもそも諦める気もなく、ガンガン進んでるママもいる。(ワイはこれ)

ママになった途端夢ができるわけでなく、
みんながみんな諦めてるわけではないのだ。

そして夢を見なきゃ罪なわけでも非国民でもない。
夢なくてもいいじゃないの。
そのうち出てくるかもしれない。

この夢を見ようぜキャンペーンに私は違和感を感じてた。

そして、夢叶えるための手段が偏っている気がしている。

要は、自分の生業にしてこそ夢は叶う、みたいな風潮を感じるのだ。

ここにも私は違和感がある。

夢の叶え方は人それぞれで良いのだ。
少額の寄付でも、自分で立ち上げても良い。
やりたい気持ちが大きいならば自分が主として動けるように生業や生活のコアにしてもよいし、
気持ちはあれどできることから、なら寄付や情報のシェアでも十分だろう。

夢の見方にもインクルーシブやダイバーシティを。

とはいえ、「ママ」という二文字の共感誘引力はすごい


ママになってからの本音の悩みは結構ドロドロしたものもあり、
なかなか人には言いにくいものもある。

可愛く思えない、手をあげそうになった、など、自分がギリギリになるところを何度も往復する、それが育児。

でも言いにくいことこそ一番理解してほしいし共感もしてほしい。

「ママ」は「ママ」によって救われるのは、多分その深い悩みを分かち合えるからだと思う。

私の娘は癇癪がひどかった。
何度も行政相談にいったり、娘に心理士検査を受けさせたりした。
結果異常なしで、五歳の今はかなり落ち着いたが、あの日々を思い出すと辛くて今でも泣けてくる。

この話を他のママさんにポロッとした時に(このポロッと出るのが『同じママ』というある種の心理的安全性なのかも)
「わかる!うちもそうだった!」
「気が狂う直前だった」など、自分の気持ちを理解共感し合えた。
これはママ同士だからできる気がする。

同じ闘いをしているママ同士は戦友。
そう考えると、「ママだからこそ」の裏には、しんどくて辛いことも多い育児の何かしらの鬱憤があるのかもしれない。

「ママ」という誘引力はすごいのだ。


垂れ流してしまったが

・ママだからって夢をみなきゃいけないわけではない
・ママ以外にも生きてるみんな夢を見ていいし叶えたいなら叶えれば良い
・夢の叶え方は人それぞれ、納得できる形でよい
・「ママ」の誘引力が強いのは、言いにくいけど共感してほしい事を共感してくれるだろう安心感があるから


【ママだって夢を諦めない】の違和感の分解はこんなところだろうか。

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