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間違えた電車でも、正しい場所に着く

10年くらい前、真夜中のカレー屋台で催された飲み会の2次会の席で、友人の上司(おじさん、45歳くらい、インド人)が私に「インドには、”間違えた電車でも、正しい場所に着く”という諺(ことわざ)があるんだよ」とドヤ顔で言った。

大学の友人が駐在していることをきっかけに、彼に会いにインド・デリーに来ていた。その友人が当日になって「静香、今夜の食事なんだけど、オフィスの上司たちが日本人の女の子が来ると聞きつけて、どうしても一緒にきたいって聞かないんだよ。2次会だけセッティングしていい?」と電話してきて、道端で街の人達にまぎれてチャイを飲んでぼーっとしていた私は、なんだか嫌な予感がした。

「日本人の女の子が来ると聞きつけて来る上司」との会食の席が心穏やかなものになるはずがない。でも、友人の顔を立てるのも大事なので「2次会だけなら」と承諾したら、本当に2次会から来た。しかもかなり大勢。
時刻は22:00を過ぎて、都市部デリーといえども小道に入れば街灯はなく真っ暗。屋台に行こう、とぞろぞろ歩く友人の上司達の顔は暗闇に溶けて見えないので、異様に光る白いワイシャツを頼りに付いていった。

ぬるいラッシーやチャイとカレー(※注 2次会までカレー)で乾杯し、展開される話は概ね下ネタ的な話で「おじさんという生き物は若い女の子を前にするとセクハラするのが世界共通」とぼんやり考えていた矢先だった。

「間違えた電車でも、正しい場所に着く」とドヤ顔で言ってきて若干イラッとしたが、友人の顔をたてて落ち着いたふりをしていたので、よく聞くと良い言葉だ。
どういう話の流れだったのか、私が長距離列車のチケットを買ったのに6時間も遅れて電車が到着したので、もはや乗っていいのかどうかすらわからなかった。といった話をした時だったような気がする。

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(写真:京都「インド食堂タルカ」のミールス。インドを思い出す味)

前置きが長く、インドのおじさんへの悪い印象を与えてしまったかもしれないけれど、私はインドもインドのおじさんも大好きです。
この国に旅に出ると感じられる魅力の一つに「回り回って、全部正しかったな」と思える愉快さがある。
ことわざの通り「間違った電車に乗っても、正しい場所に着く」ようにできている。というか、そう思わないと生きていけない。

街は人と牛と孤児とサラリーマンで溢れかえり、ケータイの着信音と車のクラクションが360度サラウンド。歩いているとひっきりなしに声をかけられて「どこいくの?道案内するよ」「僕のお気に入りのカレー屋があるんだ。一緒に行こう」とずっと誰か付いてくる。「ずっと知らない誰かが付いてくる」状況なんて日本で少しでも起きたらすぐストーカー騒ぎですよね。ストーカーのようでいて、純真な親切行為がインドの日常です。

1人でぼーっとすることなんて、忍者のように地元民にまぎれる技を身につけなければ、なかなかさせてもらえない。当然、散歩するだけでも旅程が狂います。行きたいと思ってなかったところに連れて行かれたり、食べようと思っていなかったものを食べることになったり。
それでも1日が終わる頃には「今日もいい1日だったな。色々あったけれど、これでよかったんだ」という気持ちが湧き上がってくる不思議さがある。

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(写真:これはeatreat.のカレー。チキンとひよこ豆の組み合わせが好き)

話が急に変わるようだけれど、飼っている一匹の猫の話をしよう。ロシアンブルーの男の子、名前はイヴだ。(名前は、イヴ・クラインというアーティストからとった。アダムとイブではありません)

3ヶ月の時に引き取って、それ以来一緒に住んで12年目に入るはずだけれど、本当の年齢はわからない。

2016年の夏の始まりに、もともと飼っていた猫が行方不明になった。ある日の夜更け、彼は少し開いていた窓の網戸を開けて、外に出てしまったのだ。それ以来、本当の年齢がわからなくなった。

暑い夜だった。ベッドで寝ていた私は、涼しい外気が入ってきたのを感じて目を覚まし、猫を探してふと窓に目をやり、血の気が引いた。我が家の猫は外の出入りはさせていなくて、いつも家の中にいたのだけど、その頃網戸のストッパーがなく「買わないと危ないなあ」と思っていたところだったのだ。

室内猫は、誤って外に出てしまうと、家への帰り方がわからなくなってしまう。一週間ほどはそれほど遠く離れず、近くでうずくまっていることも多いけれど、近所の野良猫にドヤされたり、怖い目に遭うとあっという間に遠くに行ってしまう。もちろん車に轢かれることもある。

全部知っていたから、その明け方から必死に捜索することになった。色々もろもろ省くけれど、合計で77日間探した。あらゆる手を尽くして、真夏を超えてパートナーも巻き込み、正真正銘・心身ともに疲れ果てた頃に、一本の電話があった。2駅隣の農家のおばさんからだった。

「我が家に少し前から出入りしているロシアンブルーの猫ちゃんで、イヴちゃんて呼ぶとこちらを向く子がいるの。あなたの子じゃない?」

私は飛び上がり、すぐさまおばさんのところへと向かい、作戦を立ててすぐ翌日、囮(おとり)を使ってその猫を捕まえた。果たしてその猫が、私がもともと飼っていた猫だったかというと、そうではないと思った。

室内飼いの猫が1週間でも外に出ると、性格も体格も表情も全て違う、まるで異なる猫になると言われている。それを加味しても、飼い主の私にはわかる違いがあると思った。

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猫が3ヶ月の頃から知っている周囲の友人たちも、その時点で4年一緒に暮らしていたパートナーも口を揃えて「これはイヴだよ」という。がんとして首を縦にふらない私にパートナーも呆れ、友人は「77日も探したから少し疲れてるのかもね」と言った。

引き取った猫に罪があるわけではないから、ゆったりとしたケージを用意し、獣医の叔母に相談してお腹の中の害虫駆除の薬をもらったり、食事を色々と出して様子を見たりしながら、また1週間が過ぎた。

毎日泣いていたけれど、何が哀しくて泣いているのかもうわからなくなっていた。元の通りのまんまるで、大きな瞳で、あまり鳴かない小さな声で私を呼んで帰ってきて欲しかったのか。抱き留めた瞬間に「この子だ」とわかる自信が欲しかったのか。

毎日泣いていた私に、友人が電話をしてきて言った。
「静香さん、イヴとは何だろうか?その子が本物かどうか、考えても一生わからないよ。それを考えるんじゃない。考えずに、ただ愛を与えることだよ。それで1日、1日と一緒にいなさい。与えるうちに、わかることがある。その子を大事にすることからだよ」

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(写真:起きれば?というと不満げな顔でこちらを見る現在のイヴ)

その時は泣く泣く友人の言葉を飲み込むようにして、黙って状況を受け入れ、言われた通りその猫に愛を与えることを意識して過ごして、1ヶ月半ほどの時が過ぎた。
この子ももともとは飼い猫だったのだと思う。人間に心を開くまでのスピードが早く、1ヶ月半という短期間で私とパートナーと身体の触れ合いに問題がなくなり、一緒に寝るようになり、呼べばこちらを向いてくれるようになった。

私はそれでも時折、元のイヴのことを思い出して泣いていた(しつこい)。
ある晩、懲りなくしみじみ泣いていると、新しいイヴが私の背中と彼の背中を合わせてきた。

猫はそういうところがある。どうしたの?と顔を覗き込むこともなく、声をかけることもなく、ただ背中を合わせてくれるのだ。私よりもずっと小さな背中が、ポカポカとした温もりを肌を通して分けてくれている。

その時、インドのおじさんに「間違えた電車でも、正しい場所に着く」と言われた日から6年の月日が過ぎて、その言葉が突然私の胸に光を差し込むようにして、戻ってきたのを感じた。

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こうして書いてみると、ささやかだと思っていた私の10年の人生の間にも、インドのデリー並に騒がしい出来事はたくさん起きていて、どんな1日も想像した通りになったことなんてなかったなと思い起こす。

降らないと思っていた雨が降って、おろしたてのワンピースが濡れる日もあれば、もう心が通じ合えないと諦めていた好きな人が、自分の眼と眼を合わせて、言葉にならない気持ちを伝えようとしてくれる日もくるのだ。
うまくいくか全くわからなかった仕事が、自由自在に回るようになって、多くの人の胸に届く日もくることがある。

それは、あの夏に「この子を引き取って、本当のイヴを探すのをやめるのは、行き先を間違えていないだろうか」と不安になった自分の気持ちを遥かに超えて「ああ結局、正しい場所に行き着いたな」と思えるようになることと同じだ。

大事なことは、インドのおじさんがドヤ顔で言った言葉を、哀しくて涙で溺れそうな面倒な私になっていても、諦めずに声をかけてくれる友人が差し出す手のひらを逃さないようにすることだと思う。

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予約したチケットを握りしめて、半日経っても電車が来なかったら、もし来たとしてももう乗っていいか、迷うかもしれない。それでもひとまずは乗って見ることを私はおすすめしたい。

乗ってみて、途中で困ることもあると思う。あるいは、新たな選択を迫られて、また迷うかもしれない。それでも、なんとかその旅が良いものになるように心から願って生きているのなら、助けてくれる人は必ず現れる。

1人で悩んでばかりいるように見えて、本当は周りにはたくさん、見えない手のひらがこちらへと差し伸べられている。その中で自分に向けて光っているものを掴む勇気を持つこと。

そのうちに、道が急に開けて、ああなんていいところに来たんだ。そんな旅先に到着する日が必ずくると信じてほしい。かけてくれた言葉が、差し伸べてくれた手のひらの温もりが、どれほどに温かかったのか、胸に差し込む光のようにして戻ってくるのだ。

書けば書くほど、自分がどんなに周りの言葉と手のひらに助けられて生きてきたのか、沁み入るばかりなので、これからは自分が声をかけて、手のひらを差し伸べる側でありたい。そう思います。

※補足 動物の正しい年齢というのは、現代医学的にもはっきりと把握することができないものだそうです。そのため、脱走した猫が戻ってきてもその子が本物かどうかということは、猫本人に言葉にして語ってもらうほか方法がありません

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