問いを生きるということ
その日私は、夕暮れどきの海を前に寝転んでいた。
一緒に訪れた連れは、いつものように眉間にシワをよせて考えごとをする私を気持ちよく放ってくれて、波打ち際で貝を拾っている。
個人の身体と心の健康相談に乗るアーユルヴェーダのセッションをするようになって、このところ「これからアーユルヴェーダを学んでいくにはどうすればいいですか」「アーユルヴェーダをどのように人生に生かしていったらいいですか」という質問が増えた。
私自身の学びが深まってきた証拠だろう。この人のように学ぶにはどうしたら良いのか、こんな風にアーユルヴェーダとともに生きるにはどうしたら良いかということを相談されるようになったのだから、どちらかといえば喜ばしいことだと思いつつも、根本的な質問に少し戸惑っていつもうまく答えることができない。
海を眺めながら、どう答えるのが良いだろうと心の中で尋ねてみる。
アーユルヴェーダは、サンスクリット語で「生命(Ayur)」の「智恵(Veda)」という意味で、体系的な医学であり補完医療で、一方で一般の生活者も取り入れることのできる「生きていくことの智恵」だ。
こう書くだけでほとんどの人が恐れ多く感じるのはわかる。「生命の智恵」だなんて言葉がずいぶん壮大だからだ。知り始めると実際に壮大な話が待っている。
この説明を読んで探究心をくすぐられたり、むしろ足を踏み入れてみたいと思う勇気は、誰もが持っているわけではない。勇気があるということは、健康であることの一つの証拠だからだ。元気がなければ、勇気も出ない。
日が落ちはじめて、次第に波の音が大きくなってくる。
連れがこちらを呼ぶ声に誘われて、波打ち際に寄ってみるとその人は、
「海は深くて、浅いね。それで終わりがない」と言った。
どういうこと、と声に出す前に、それが今知りたかった答えなのだと気づいた。
押し寄せて、また引いていく海の波のように、私たちのいのちは常に変化する。一瞬前の自分はもうどこにも存在しない。理想とする自分や、残念だと思う自分のイメージが具体的にあるのなら、それは過ぎ去った自分が作った脳内の編纂に過ぎないのだ。
つかんでもつかみきれない「自分」がどう生きていく、という問いに、どれくらい足を踏み入れるかもその人の自由だ。
波打ち際で裸足になってその水の冷たさを知るだけでも良いし、裸になって太陽が落ちていく方に向かって泳いでもいい。長い呼吸が得意なら、思い切って暗い底へと潜っていくこともできるのだ。
アーユルヴェーダを勉強する、というのはそのようなこと。
大切なことは、どれだけ潜っても海は繋がっていて終わりがないように、その問いに明確な答えはなくて、それでも、問いをし続けることを理解することなんだと思う。
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できるだけ、恐れ多く思っている方にアーユルヴェーダって楽しそうだなと感じてもらえる話を書こうとしたけれど、結局壮大で恐れ多い感じになってしまった。
もしよかったら、海の波打ち際でパシャパシャやったり、ちょっと泳いでみたりしている自分が、子どものような顔をしていることを想像してみてほしい。
明日の自分に何が起きるかなんて考えずに、今ここの自分に起きていることを全身で喜んだり、怖がったり、泣いたりしていた、小さな頃のような気持ちで。想いが、言葉になる前の頃のことを。
今日からずっと先のことがわからないのは、小さな頃も、大きくなっても同じ。せっかくだから存分にその学びを、その問いを、楽しんでください。
夢中になっているうちに、ああこんな風に私は「世界を知りたかったんだ」とある日突然、道が開けると思います。
最後にリルケの言葉を引用します。
今すぐ答えを捜さないでください。
あなたはまだそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです。
すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです。
今あなたは問いを生きてください。
そうすればあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中へと生きていかれることになりましょう。
(ライナー・マリア・リルケ 著/高安国世 訳『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』新潮文庫)
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