あなたの眼に私はどう映る
写真家の幡野広志さんがお店にやってきた。
私が会いたいと言ったのだ。ポートレイトを撮ってほしいと連絡をした。半年くらい待つのかな、呑気に待とうと思っていたらすぐ来られるという。コロナで撮影が色々とんで、時間があるそうだ。
幡野さんは写真家で、元猟師だ。一方で、2017年に血液の癌に罹患し、余命宣告を受けたことを書いたblogが大きな反響を呼び、その後なぜか人生相談をされるようになった。坊さんではなく、写真家なのに、だ。
家族が癌になったのだけどどうしようとかそういう話ではない。離婚や借金、転職や浮気や、市井の人が通り過ぎる様々な悩み相談だ。
たった10行の悩み相談にも3000字を超える文章でお返事をする幡野さんの記事を読んでいて、私は何度も胸がすく想いをした。今回連絡したのは、とにかくそのお礼を言いたかったからというのもある。
(「胸がすく想い」て最近の人はあまり使わない日本語だと思うから、説明しておくと「心のつっかえが取れたような、すっとした気持ち」という意味です)
文章というのは前後の文脈がとても大事なので、とてもここで、その「胸がすく」想いをした文章を気軽に抜粋する気にならない。なので、これを読んだ人はすぐに本を買ってください。
私もなぜか、人生相談をしている。アーユルヴェーダのカウンセリングをするようになってからのこと。アーユルヴェーダのカウンセリングって何をしているんですか?とよく聞かれるけれど、ほとんど人生相談だ。やりたくてやっているわけではなくて、気づいたらやっていただけ。
最初に相談事項を3つ整理してもらうので、平均的には「ダイエット」「生理の改善」「花粉症を治したい」とかなんだけど、話しているうちにたいがい人生相談になる。人の身体と心の悩みはすべてつながっているし、深めていけば生き方に行き着くからだ。
もちろん、相談事項の時点でもっと重みのあるものもたくさんある。無月経、対人恐怖症、重く長いPTSDを伴ううつ病。癌キャリアの方とも話すことが増えてきた。
ただ、それがどんな病であれ、一度発病した病は症状がなくなったとしても「完治する」という言葉遣いで説明できるものじゃないと私は思っている。
それはその症状が表に出てこないように「鎮静」しただけであって、人は発病のある一定の段階を超えたのちは、ずっとその病気と共に生きていかなければならないのだ。いつまたその苦しい症状が顔を見せるかわからなくても、極力平らな心で受け止めて、まあまあ、と仲良くやっていくということを理解する必要がある。心の病気も同じ。
だから、カウンセリングで話をしているうちに、そもそもなぜこの病と自分は共にすることになったのかという話になる。その人生に良し悪しもない。意味を持たせてはいけない。原因と結果があるだけで、ただ体験するだけだ、という話をすることになる。
「ただ体験するだけ」という言葉を発する時、私はいつも小さく深呼吸をする。聴く相手が「ただ体験する」その症状や、人生のハプニングの辛さは、私には一生わからないものだからだ。その言葉が曖昧だったり、変な軽さを持たないように慎重になる。
自分と他人は圧倒的に違う。どんなに一つになろうと皮膚に触れようとしても、手を繋ぐたびに「あなたと私は違う」ということを知ることになる。それが愛おしくて、同時に寂しさを誘う。だからこそ、私たちは触れ合わずにはいられない。言葉を交わさずにはいられないのだ。
幡野さんの人生相談の文章を読んでいて気づいたことがある。「この人は私と同じで、とにかく人の話を聴くのが楽しくてたまらないんだな」ということだ。
「なんで僕に聞くんだろう」てタイトルにつける気持ちもわかるけれど、集まってくる他人の人生の話を読んで、毎日お腹がいっぱいになるくらい「人はあまりに人と違うけれど、みんな自分の幸せを大事にしてほしい」と心から願っているんだと思った。
完璧なボディメイキングとか、成功して名声を得ることよりも、心が幸せだと感じる人生を生きてほしい。と一人一人に対して心から願っているのだ。
アーユルヴェーダの「治療士の心得」という章にこんな文章がある。
「生き物に幸福を与える医者」
(アーユルヴェーダの)知識、推理力、(関与する学問の)特別な知識、記憶力、集中力、および勤勉さ、という6つの能力を備えた人は、必ず目的を達成する。
学習、知恵、実践による認識、経験、熟練、よき指導者についていること、これらの素質の1つでもあれば、医者という言葉を用いるのに十分である。
これらのよい特性のすべてを備えている人は「優秀な医者」という言葉にふさわしく、生きとし生けるものに幸福を与える人である。
聖典はものを照らすための光であり、自分自身の知力は眼にたとえられる。これら2つを正しく身につけている医者は、治療を行なって誤りを犯すことはない。
治療において3つの柱は医者に依存しているから、医者は自分の徳性の完成に向けて努力しなければならない。
(患者に対して)友情を持つこと、(患者に対して)慈悲を持つこと、治療可能(な患者に)対して関心を持つこと、死が近づいた患者に対して執着を感じないこと、この4つが医者のとるべき態度である。
そして「学問と実践の力・経済力・名声・あの世の天国を望む医者であるあなたは、雌牛・行いの良い人を含めた全ての生命の幸福を、昼も夜も、立っている時も座っている時も望むべきである」というのだ。
これでいうと、私も幡野さんも、意図せずして医者のような人生を送っていることになる。もちろん、昼も夜も、立っている時も座っている時も望んでいるわけじゃないし、どうでもいいなと感じる他人だってたくさんいる。
タイミング悪く中途半端な質問をされると苛立つことだってあるし、頭を使わずに漠然と食材の危険性を指摘したり、道端に平気でゴミを捨てる人を見ると背後から近寄っていたずらしたくなるような、意地悪な自分がいることを隠しきれない。
私は幡野さんの写真や文章に触れていて、その隠しきれない意地悪な自分をちゃんと見せながら、それでも赤の他人の純粋な幸せを願わずにはいられない心と、その知性を好きになった。
その光と、知性を伴った眼に私はどう映るのか、見てみたくなって連絡をした。写真家の写真は「その人がそのように見ている」世界がそのままに現れるからだ。
大きな会社をやめて、料理をするようになった私を、この人はどう写すだろうと見てみたくなった。
果たして、そこにはとても幸せそうに笑う自分がいた。
10年前、わけもわからずただ「人の身体が良くなる料理を作る人になりたい」とその時の衝動だけを信じて飛び込んだ茨の道を、ほとんど血だらけになりながら歩いてきた今、誰も見たことがない山頂の景色を大切に抱きしめている自分が、いた。
シワもシミも増えて、頬もずいぶん下がったけれど、10年前よりずっといい顔をしている。それを幡野さんに撮ってもらったことがこの上なく嬉しかった。
まだ10年。これからさらに10年。10年経った先の未来に、私はどんな顔をしているだろう。その時はきっとまた、幡野さんに撮ってもらいたい。
それまでどうか、お互い元気でいましょう。強く信じて、握手を求めた私に幡野さんが言った。
「うわ、めっちゃ手、あったかいですね」
(写真:幡野広志)
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