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三千世界への旅 魔術/創造/変革41 近代の魔術19 中国革命の魔術1

革命の第一段階 辛亥革命


社会主義革命の魔術的な作用の例としては、ロシア/ソ連の他にもうひとつ、中国の革命があります。

中国もロシアと同様、古い時代の帝政が20世紀まで残っていて、帝政の崩壊を経て、中国共産党による革命へと進んでいきました。

ただし中国の場合、帝政は清という満州人による支配体制でしたから、革命の第一段階としての帝政の打倒は、中国人がモンゴル系騎馬民族で満州人の支配から自分たちの国を解放する運動でもありました。

中国人による清朝打倒は1911年、軍の反乱によって始まり、翌年1912年に新政権が樹立されました。臨時大総統という肩書きで政府のトップに就いたのは、元々医師で、革命運動の思想的なリーダーだった孫文です。

孫文は清朝を打倒して中国人の政権を樹立するだけでなく、民主的な制度を確立して、中国の近代化を進めようと考えていました。

しかし、清朝を倒した軍のリーダーたちは必ずしも孫文のようにリベラルではなく、軍人の親分的な存在だった袁世凱という将軍が大総統になったかと思えば、彼に反発する軍人たちもいて、各地で軍閥と呼ばれる地方政権を樹立しだします。

一方、孫文は日本の右翼から支援を受けたり、1917年にロシア革命が起きて、中国に共産主義運動が広がると、共産主義者たちをも受け入れようとしたり、よく言えば懐の深い政治家でしたが、右翼・左翼入り乱れた状況をまとめることができないまま、1925年に世を去ります。

中国の社会主義革命は、ロシアのように一気に帝政打倒から共産党政権へと突き進んだわけではなく、混乱状態が長く続いたのです。


都市型武装蜂起の失敗 


中国共産党は1921年に結成され、各地域で勢力を伸ばしたとされています。

孫文は国民党と共産党が力を合わせて革命を推進するという方針を打ち出し、いわゆる国共合作が試みられました。

しかし、国民党のリーダーたちはこれに不満だったようで、孫文の死後1927年に蒋介石がクーデターを起こして権力を掌握すると、共産党は政権から追われてしまいます。

その後1930年に共産党は上海など都市部で武装蜂起を試みますが、いずれも失敗に終わっています。

これらの武装蜂起がロシア革命のように成功しなかった理由は色々考えられます。

1917年のロシアも1930年の中国も、資本主義経済や産業が未発達で、社会主義を支持する工場労働者の数が先進国に比べて少なかったというのもあるでしょう。

さらに、辛亥革命は満州人王朝の打倒をめざす軍の武装蜂起によって始まり、その後も軍が国民党政権で主導権を握っていたわけですから、時代の流れはまだ日本の明治維新のように、ナショナリズムによる国家主義的な近代国家建設を志向していたと言えます。

ロシアで社会主義革命が起きたからといって、中国でもこうした状況を覆して共産党が武力で政権を奪うことはほぼ不可能だったでしょう。

ロシア革命の場合は、第一次世界大戦直後の混乱状態で起きたため、軍に多くの労働者や農民が武器を持った状態でいたり、軍にもボトムアップ的にソビエトという評議会が設立されたりと、共産党が武力革命を成功させやすい状況があったのに対して、1930年頃の中国共産党は遠いソ連からの支援や指導があっただけでしたから、武装蜂起が成功する見込みはありませんでした。


毛沢東の魔術 山岳ゲリラ作戦


一方、地方の山岳地帯では、毛沢東によって都市部と異なる武装蜂起が試みられていました。湖南省・江西省にまたがる井崗山(せいこうざん)の山村を拠点にした山岳ゲリラ作戦です。

毛も地元の湖南省で武装蜂起して失敗し、山岳地帯に逃げ込んだのですが、そこで農民たちの農作業を手伝いながら、彼らを教育・啓発し、仲間を増やしていきました。

都市型の武装蜂起と違って山岳ゲリラ方式は、国民党軍が攻めてきたら、山岳の地形を生かして襲撃したり、山の中に隠れたりしながら持ち堪えることができます。毛沢東はこの方式を周辺の各地に展開しながら、中国共産党の勢力を拡大していきました。

山岳や熱帯の密林などの自然環境を利用したゲリラ作戦は、後にキューバ革命などで用いられ、特にベトナム戦争でベトナム側が圧倒的な軍事力を投入したアメリカを撃退したことで有名になりましたが、この時点ではまだほとんどの共産党幹部にとって、想像すらできない奇策でした。

彼らにとって社会主義革命は、マルクスの思想よって資本主義の欠陥に気づき、社会主義の可能性に目覚めた労働者階級によって遂行されるもので、産業革命も資本主義による経済発展もない山間部から革命を起こすというのは、あり得ないことだったからです。

しかし、中国共産党は都市部の武装蜂起失敗後、この山岳ゲリラ作戦で人口の圧倒的多数を占めていた農民を勢力に取り込み、アメリカの支援で最先端の武器を持つ国民党軍を人海戦術で駆逐し、1949年に社会主義政権を樹立します。

この都市部から農村、工場労働者から農民へという発想の転換こそ、革命を成功させた毛沢東と中国共産党の魔術でした。

毛沢東が中華人民共和国で絶対的な権力者になり、カリスマ的な人気を獲得したのも、この魔術の発明者だったからと言えるでしょう。


複雑なゲーム


もちろん1911〜12年の辛亥革命から1949年の中華人民共和国の建国までの間には、中国共産党と国民党の戦いだけでなく、満州国を建設して国際社会から孤立し、日中戦争から太平洋戦争へと突き進んだ大日本帝国軍と、国民党・共産党を合わせた中国側の戦い、国民党を支援するアメリカと共産党を支援するソ連との対立など、複雑なゲームが繰り広げられました。

このあたりの事情について僕は、エドガー・スノーの『中国の赤い星』という本で知りました。スノーはどちらかというと社会主義・共産主義に共感するアメリカのジャーナリストですから、中国共産党に好意的な視点から書かれていますが、世界的に広く読まれた本なので、思想的に偏った書き方はしていません。

ただ、この本は1936年に彼が延安(中国共産党が活動の拠点にしていた高原地帯。唐の時代に都・長安が置かれていた西安の北部)を訪ねて、毛沢東、周恩来などリーダーたちにインタビューして得た情報をもとに書かれ、1937年に出版されていますから、まだ日本軍との戦いの途中で、その後の国共内戦の結果も盛り込まれていません。

しかし、だからこそ現在進行形の内戦と革命の熱やリアリティが感じられます。


軍事的な魔術


この勢力拡大で大きな役割を果たしたのが、後に人民解放軍の父と呼ばれるようになる朱徳でした。毛沢東が元々教師で、軍事的なノウハウを持たなかったのに対して、朱徳は清朝末期の軍に入隊して辛亥革命に参加したプロの軍人です。

辛亥革命後の混乱期には、他の軍のリーダーと同様、地方の軍閥になってしまい、麻薬に手を出したりして、享楽的な生活を送った時期もありましたが、元々国や国民のために働くという使命感を強く持っていたため、1921年に軍を辞めて上海に向かいます。

そこで孫文や共産党幹部と接触し、共産党に入党を希望しますが、党の幹部たちはついこの間まで軍閥の1人だった朱徳をにわかに信用せず、入党を拒否します。朱徳は中国を離れヨーロッパに渡り、ヨーロッパで活動していた周恩来にドイツで会います。

しばらくドイツで社会主義を学んで周恩来に認められ、中国共産党に入党を果たした後、1925年ソ連に渡り、モスクワで軍事を学びました。この時点で朱徳は軍での経験から、中国の社会主義革命には都市型の武装蜂起ではなく、地方に乱立する軍閥との闘争が必要であり、ゲリラ戦が有効だというビジョンを持っていたと言います。

帰国した朱徳は1927年から武装蜂起を指揮するようになり、1928年には後に人民解放軍となる紅軍の第四軍長に就任します。井崗山に立てこもっていた毛沢東と合流し、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地へゲリラ戦を拡大していきました。

先ほど触れたように、毛沢東は軍事的なノウハウを持っていなかったのに対して、朱徳は天才的な軍人で、ゲリラ戦を展開する地域を広げることができたのは、朱徳と合流できたことが大きかったようです。この頃から彼らの軍は朱毛軍と呼ばれるようになりました。

朱徳は人民解放軍のトップとして活躍し、中華人民共和国が建国されると、毛沢東や周恩来などと並ぶ建国の父として、政府の幹部になりますが、政治的にはこれといった活動をしていないので、おそらく軍人としての才能はあったものの、革命家・政治家としての資質はなかったのでしょう。

毛沢東と組んでゲリラ戦を展開した1930年あたりからすでに、政治・思想指導者は毛沢東、軍事は朱徳という役割分担ができていたようです。

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