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三千世界への旅 倭・ヤマト・日本5  女王・女帝から考える古代1

しばらく忙しくて投稿できませんでしたが、いろんなことが一段落して、「倭・ヤマト・日本」の続きを書き始めたので、最初の部分をアップします。

今回のテーマは、古墳時代末期・飛鳥時代の天皇と、倭国から日本へと移っていく過程、つまり古代の日本という国がどうやって形成されたのかです。


男王の時代


古墳時代の倭国像を僕なりに見てきた過程で、もうひとつ疑問に思ったことがあります。それは、倭の五王が男性だったのか、男王だったとしたらなぜ男王だったのかということです。

今まで僕は、漠然と彼らを男性と考えていました。『宋書倭国伝』には、特に彼らを女王と記していないからです。

中国の歴代王朝は、皇帝・王から地方豪族の首領、官僚に至るまで、一貫して男性によって運営されていたようです。女性の皇帝は唐の則天武后しかいないとされています。

倭の五王が朝貢した南宋も男性統治の慣習を受け継いでいたと考えられますから、倭国側の王が女性だったら、『魏志倭人伝』が女王・卑弥呼について記したように、『宋書倭国伝』にも特異なこととして、それとわかるように書いたでしょう。特に女王と書かれていないということは、男王だったと考えられるわけです。

もちろん、戦乱の時代なら軍の最高司令官が王になりがちですから、倭の五王時代の王がすべて男王だったとしても不思議はありません。

ただ、そこで気なるのは、古墳時代末期の飛鳥時代から大和朝廷が始動した奈良時代にかけて、倭国にかなりの数の女性の天皇が出ていることです。

『日本書紀』では、神話時代から天皇は男性だったのに、6世紀末の飛鳥時代、推古天皇から女性天皇が頻繁に登場するようになります。



女王・女帝と氏族社会


卑弥呼や壹与という女王がいた邪馬台国の弥生時代末期から、男王が支配した古墳時代を経て、なぜ、再び女王・女帝が即位する時代になったんでしょうか?

ひとつ考えられるのは、戦乱の時期を経て、大和朝廷の統治が安定したから女王の慣習が復活したのかもしれないということです。

しかし、そもそも邪馬台国の女王と、飛鳥時代・奈良時代の大和朝廷の女帝は、同じ価値観によって立てられ、同じ政治的役割や意味づけを持っていたんでしょうか?

義江明子の『女帝の古代王権史』という本によると、大和朝廷の大王・天皇を輩出した支配階級の氏族社会では、女性の大王・天皇は従来考えられていたような、男性の大王・天皇が急死した場合などの中継ぎ、仮の大王・天皇ではなかったそうです。

また、邪馬台国の卑弥呼のように宗教的な力で神々と人間界との仲立ちをする巫女的なシャーマンではなく、女性の大王・天皇も男性の大王・天皇と同様、長老たちに実力を評価されることで大王・天皇になり、同じように国のトップとしての役割を果たしていたとのことです。

大王・天皇の死で帝位に空白が生まれたら、氏族連合の長老たちによって女性・男性を問わず候補者が吟味され、経験や実績、判断力など、統治者としての能力が最適とされる人材が女性だった場合は女性が、男性だった場合は大王・天皇になったというわけです。

この本では、優秀で実績もある若い男性の皇子が、まだトップになるには経験がなさすぎるという理由で大王・天皇に選ばれず、死去した大王・天皇の皇后など、中年の女性が即位した例などが色々紹介されています。

それは男性の候補に適格者がいないから、仮の中継ぎとして未亡人を大王・天皇に立てたということではなく、男女の候補者の中から最適だから女性が選ばれたということだったようです。



大王と天皇


ちなみに、国のトップが天皇(すめらみこと)と呼ばれるようになるのは、『日本書紀』の編纂が始まり、この国の歴史と政体のあり方が、中国・唐による当時のグローバルスタンダードに合わせて再編された天武天皇あたりから奈良時代にかけてで、飛鳥時代まで倭国のトップは大王(おおきみ)と呼ばれていたようです。

後世の我々は『日本書紀』を参考に、古墳時代・飛鳥時代の大王も「天皇」と呼ぶのが一般的ですが、ここで扱う時代は有力豪族が支配する国家から、中国式の中央集権システムによる国家へ転換が行われ、国のトップの呼び方も大王から天皇へ切り替わった時代なので、一応「大王・天皇」と便宜上呼んでおきます。



推古天皇と聖徳太子


『日本書紀』によると、推古天皇は35年も大王・天皇の位にあったとされています。一方、彼女の在意中に摂政を務めたとされる聖徳太子は隋との外交や仏教の本格導入など、重要なプロジェクトを推進したのに、皇太子のまま死去しています。

これは不自然だということで、聖徳太子は皇族ではなく、実は渡来人だったんじゃないかといった説を唱える人もいるようですが、義江明子によると不思議でも不自然でもなく、聖徳太子が新しいプロジェクトを担当・推進した若い皇子に過ぎないのに対して、推古は先代である敏達天皇の皇后だったことや、それまでの経験などから、はるかに大王・天皇にふさわしかったとのことです。

聖徳太子は摂政・皇太子だったようですから、そのまま活躍していれば、推古の次に即位したはずですが、彼の方が先に死去したため、即位できなかったようです。

この頃の大王・天皇は高齢化したから皇太子に位を譲るという慣習はなかったようなので、推古が長生きしたことで、聖徳太子に順番は回ってこなかったということかもしれません。



皇極・斉明天皇と中大兄皇子


天智天皇もまだ中大兄皇子だった若い頃(21歳くらいとされています)に、蘇我入鹿を宮中で暗殺し、その一派を粛清して、その後大化の改新という改革を行ったとされていますが、彼も長い間天皇に即位していません。

大化の改新は中国の政治制度や思想、当時の先端技術などを導入した、大きな国家改革プロジェクトでしたが、この時期の大王・天皇は母の皇極・斉明でした。

これも見方によっては不自然ということになるかもしれませんが、義江明子によると、当時のオフィシャルな価値体系では当然ということになります。

中大兄は実務がいくらできても、大王・天皇として色々な氏族連合からなる倭国をまとめていくには、若すぎたということです。

こうして見ると、重大な国家プロジェクトなどの実務は聖徳太子や中大兄のような男性の皇太子が担い、推古や皇極・斉明は名目上のお飾りだったと考えることもできそうですが、それが女帝だったからと考えるのはちょっと違う気がします。

聖徳太子や中大兄は新しいビジョンを持って変革期に現れた特殊なリーダーです。推古や皇極・斉明のような女帝以外に、飛鳥時代には用明や崇峻、孝徳など男性の大王・天皇がいますが、革新的なビジョンを持って変革を断行するようなタイプのリーダーではありませんでした。

国家のトップである大王・天皇の最も重要な役割は、幾つもの有力氏族をまとめながら、争いが起きないような政治的判断を下すことであり、国家のシンボルとして政治的な行動の中心に存在することでした。

この基本的な役割に比べると、変革プロジェクトの企画・推進は必ずしもトップの使命ではなく、摂政や皇太子、それを補佐する皇族や豪族が担う実務レベルの仕事です。そう考えれば、飛鳥時代の大王・天皇とプロジェクト担当者としての摂政・皇太子の役割分担も納得できる気がします。



大王・天皇のハードワーク


皇極は蘇我蝦夷・入鹿一族が滅ぼされた直後に一度退位して、弟の孝徳天皇が即位していますが、孝徳が数年で病死したため、再び即位して斉明天皇になりました。

当時、大王・天皇は死去することで交代するのが基本ルールだったので、生きているのに退位・譲位するというのはイレギュラーなケースでしたが、聖徳太子の前から倭国の仏教普及を推進してきた蘇我氏が粛清されたわけですから、特殊な事例が起こり得たのかもしれません。

ちなみに、実際には蘇我氏が大王・天皇に即位していたのを中大兄一派がクーデターで政権奪回したので、皇極・孝徳の即位はなかったんじゃないかという説もあるようです。

『日本書紀』によると、朝鮮半島で友好国である百済が唐・新羅連合に滅ぼされたとき、倭国は百済を再興するため、大軍と共に、倭で預かっていた百済王子・豊璋を送り届けていますが、斉明は筑紫(今の福岡)まで出向いて、この一行を見送っています。

この後、倭の軍は朝鮮半島・白村江の戦いで唐・新羅連合に大敗し、斉明は大本営が置かれた筑紫で亡くなってしまいます。

実務責任者だった皇太子・中大兄は彼女の長い喪があけてようやく即位して天智天皇になるのですが、倭国の頂点に立って国をまとめる大王・天皇という役職は、彼のような実力者でも簡単に務まるものではなく、実務能力以上に支配階級の氏族社会が納得するような状況を待つことが必要だったのかもしれません。

一方で、おそらく高齢と過労で弱っていた斉明が、朝鮮半島での戦争においては、戦地までは行かなくても、筑紫つまり倭国の玄関口である今の福岡まで行っているわけですから、女性でも大王・天皇である限り、こうして国の最高責任者としての役割を果たさなければならかったというのも重要なポイントです。

男性の皇太子や大王・天皇でも、海外へ自ら出かけることはなかったようですから、斉明は当時の大王・天皇として男性と変わらない役割を果たしていたことになります。


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