三千世界への旅 魔術/創造/変革47 民衆と魔術の主権者
ドストエフスキーが見たロシアの民衆
ロシアと中国の社会主義革命を振り返り、そこに作用した魔術の共通点を見たところで、もう一度スターリンの魔術に戻って、彼の独裁の舞台裏をのぞいてみましょう。
もしかしたら、ロシア革命初期の前衛芸術や先鋭的な革命思想が弾圧され、スターリンの体制かで党や国家が絶対的な権威を持って彼らを指導してくれるようになった時、古臭いこの体制はソ連人民、ロシア国民の多数を占める、素朴な人たちの好みに、ある意味合っていたのかもしれません。
若い頃社会主義テロリストだったドストエフスキーは、文豪になってからの作品で、ロシアの民衆は極端に走る性格を持っているといった意味のことを、登場人物に語らせています。
若い頃のドストエフスキーはテロで革命を起こそうと企む組織の一員でした。時代は19世紀でしたから、20世紀に現実となったロシア革命はまだまだ先のことですが、逮捕されてシベリアに送られた彼は、ロシアの民衆について深く考えながら日々を送りました。
自分のように頭で社会主義を空想する若い社会主義者と、何も考えず大地に張り付いて生きる民衆のギャップについて徹底して考えた成果が、のちに首都に戻って発表した『罪と罰』や『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などの大作に結実します。
そうした作品の中では、登場人物たちの政治思想や哲学に関する議論が延々と繰り広げられるのですが、そのテーマは近代という新しい時代がもたらす劇的な変化と、近代の科学や理性、合理性についていけず、惑う人間です。
その戸惑う人間の一部は、若い頃のドストエフスキーのように頭で社会や政治について考え、その考えを広めようとしますが、人間の大多数を占める無学な民衆はそれを理解しないので、知的な人たちは孤立します。その一部は暴力で革命を起こそうとして失敗し、ますます孤立します。19世紀後半のロシアで起きていたのがまさにそうした現象でした。
極端な服従から極端な革命へ
普通の知識人は、知的な枠組みの中で悩んだり、考えたりし続けますが、ドストエフスキーはそうした知性の限界を暴き、知的な主張に反応しない民衆とのギャップがどんなものなのかを探求しました。
彼が考察した19世紀ロシアの民衆は、強い絶対的権力者としての皇帝を崇拝していましたが、それは彼らが食べていけることを保証してくれるかぎりにおいてであり、無謀な戦争であれ、異常気象による凶作であれ、理由はともかく食えなくなって飢えるようになったら、すべての責任を負っている皇帝を憎むようになるし、革命を支持するようにもなるような人たちでした。
つまり、厳しい気候風土の中で生きるロシアの民衆/農民は、ものすごく我慢強く、どんな残酷な支配者も受け入れるけれども、生活の厳しさがある臨界点を超えて、自分たちの生存が危うくなるところまで達すると、極端な服従から極端な反乱へ走る性格を秘めているということです。
ロシア人というのはそういう意味で、絶対的な権力者を支持し、神のように崇拝するけれども、彼らの期待を裏切った権力者は大胆に殺してしまうようなところがあるということを、ドストエフスキーは指摘しているわけです。
しかし、だからといって権力者を殺した後に、民主的な制度を打ち立てて、自分たちで国家を運営していこうとするかというと、そういうこともなく、武力で権力を握った新しい政権を、新しい絶対的な権力者として崇め、従うというのがロシア人です。
ロシア革命で樹立された新しい政権でも、強くて明快な絶対的権力者が自分たちを導いてくれることを望んだ結果、スターリンの独裁に落ち着いたということでしょうか。
愚かな大衆?
ただ、こういうふうに言ってしまうと、民衆を主体性のない愚かな人たちと考えてしまうことになります。
よく自分たちの思想が世の中に受け入れられない知識人は、それを大衆の愚かさのせいにして、こんなふうに考えます。
愚かな大衆は、自分で考えようとせず、自分たちをいい結果に導いてくれる指導者を支持する。優れた指導者がそれに成功すれば、自分たちの選択が正しかったことになるし、指導者が失敗して失脚したら、それは悪い指導者だったことになり、彼に取って代わった新しい指導者に期待する。指導者がどんなに残酷な独裁者で、どんなに無理難題をふっかけてきても、大衆はそれに耐える。そうやってすべての責任を支配者に預けて、自分たちは何も考えずについていく。だから民主主義も自由主義も育たない。それが大衆の愚かさでありずるさであるというわけです。
しかし、僕はそこに違和感を覚えます。
そういう考え方を突き詰めていくと、歴史を動かすのは1人の、あるいは一握りの天才であって、愚かな大衆は彼についていくしかないんだ、みたいなことになるからです。
しかし、1人のあるいは一握りの天才が世の中を、ひとつの国や民族を動かすには、その大衆を動かさなければなりません。彼・彼らがどれだけ天才でも、大多数が彼・彼らを支持して動かなければ、何も起こらないからです。
独裁体制の民意
つまり、歴史的な変化は大衆が変化し動くことによって起きる、あるいは体臭が変化し動くことによってしか起きないとしたら、1人あるいは一握りの天才的な指導者と、彼・彼らを選んで支持する大衆の、どちらに主権があるでしょうか?
指導者は大衆の支持を獲得しなければ何もできないわけですから、主権は大衆の方にあると僕は考えます。これは政治の制度が民主主義かどうかの問題ではありません。
古代の宗教的な支配でも、王侯貴族による支配でも、民が飢えれば暴動が起き、権力は崩壊します。もちろん民の側に多くの死者が出ますが、民は数的に圧倒的多数派ですから、何%あるいは何割かが死んでも持ち堪えられます。
重要なのは、社会が成り立つための生産をしているのは民であり、そんなふうに多くの民が死ねば、支配者側は税収が激減し、政権が成り立たなくなるということです。その意味でどんな支配体制でも本質的には民主的な法則で機能しているわけです。
政治的なシステムが宗教による統治であろうと、王政であろうと、自由主義・民主主義であろうと、社会主義・共産主義であろうと、それが機能するためには民の支持が必要なのは同じです。その支持が積極的か消極的なといった違いはあるかもしれませんが、政治とは民を顧客として行うビジネス、客商売なのです。
そのビジネスがどんなかたちをとり、安定した状態が長続きするか、混乱や抗争が起きて短命に終わるかは時と場合によります。
自由主義・民主主義が機能するのは、経済が発展した近代の先進国ですが、今の欧米諸国のように自由で民主的な先進国が、自由であるがゆえに混乱する場合もあります。
一方、中国やロシアやトルコなど、一時は経済発展のためにそれなりの自由化・民主化を試みた国も、それぞれの事情で独裁に逆戻りしたりもします。
スターリンやヒトラーを選ぶということ
もちろん民が主権者だからといって、正しい選択をするとはかぎりません。国家のように巨大なものをどうしたらいいのか、優れた政治家や思想家だっていつも必ず正しいわけではありませんから、民の多くが正しい判断ができないのは当たり前です。
ドイツ国民の多くが科学と意志の力で事態を変えると豪語するナチスを国政選挙で多数党に選び、実際にナチスがドイツをハイパーインフレから救い出し、経済成長の軌道に乗せたとき、ナチスの危険な独裁や軍国主義、ユダヤ人迫害というネガティブな面が明らかにあったにも関わらず、そのデメリットと経済復興のメリットを秤にかけて、ナチス支持を続けたとき、ドイツの外からそれを批判するのは簡単だったかもしれませんが、第一次世界大戦の敗戦や政治・経済の崩壊の渦中で、正しい判断をするのはとても難しいことでした。
ドイツ人はナチスの実行力に賭け続けないではいられなかったのです。
一方、スターリンの独裁は、議会制民主主義から生まれたものではありませんでしたが、それでもソビエト共産党が彼の強い指導力で人民を導いていくことを、ある人たちは熱狂的に支持し、ある人たちは黙認しました。
科学技術も社会・産業インフラも未熟なまま、欧米列強の経済封鎖や反革命勢力との戦いの中で、経済や社会を発展させていくのは極めて困難だったからこそ、彼らを団結させ、明確な目標を示して、文句を言わせず駆り立てる政治体制が適していたとも言えます。
すり替えられた社会主義と国家主義
ロシア革命当時は、第一次世界大戦でロシアも含めてヨーロッパ中が疲弊していましたが、そこにアメリカ発の世界恐慌が広がりました。自由主義・資本主義経済や民主主義が機能しなくなる中、各国でファシズムや軍国主義が台頭しました。
世界恐慌は資本主義の欠陥が露呈した現象ですから、資本主義を否定する社会主義者たちも勢力を伸ばしましたが、結果的にファシズムや軍国主義が勝利しました。
前にも触れましたが、社会主義という新しい経済・社会のシステムを創造するより、感情的に行動できるファシズムの方が簡単でしたし、軍需産業で手っ取り早く経済を復興したり、増強した軍備で他の国と戦争して領土を獲得したりする方が、未来が明快に見える気がしたからです。
ソビエトがスターリンによる独裁と軍国主義を推し進めたのも、ある意味こうしたファシズムと軍国主義化という世界的な潮流の一部だったと見ることもできるかもしれません。
社会主義は本来、労働者の草の根的で水平な組織によって政治・経済・社会が運営される仕組みですから、独裁とか国家主義、愛国心といったものと相容れないはずですが、ソビエト連邦ではスターリン政権下にどんどん個人崇拝や愛国心、国家主義がエスカレートしていきました。
社会主義が国家による統制・支配のシステムのように見られるようになったのは、こうしたソビエト連邦とその支配下に入った社会主義国家群が、社会主義本来の考え方を捨て、国家主義に傾斜したからです。
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