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三千世界への旅 魔術/創造/変革28 近代の魔術6 ナショナリズムの仕組み


民衆のナショナリズム


重工業や繊維産業が発展するにつれて、都市では商業も発展しましたが、農村では耕作地がそれほど増えたわけでもなく、気候によって凶作が続くこともあり、多くの農民は貧しいままでした。余剰人口は海外へ移民するか、労働力として都市部へ流れ込みました。

これは近代ヨーロッパでも起きたことですが、農村と都市部の貧困層は、近代化の敗者・犠牲者として、不安や不満を蓄積させ、没落した武士階級とは別のナショナリズムの源泉になっていきます。

民衆の不満は、たとえば日露戦争で大量の戦死者が出たときに、無能な指揮官だった乃木希典の屋敷に遺族が押しかけたり、講和条約の内容が戦勝国であるはずの日本が敗戦国であるロシアに譲歩しすぎているというメディアの論調に乗せられた民衆が、日比谷で焼き討ち事件を起こしたりといったかたちで噴出しました。

明治政府は今よりはるかに強権的でしたから、暴動は警察や軍によって制圧できましたが、政治家も官僚も軍人も、民衆の不満には神経を尖らせていました。江戸後期から幕末にかけて外圧から生まれた不安や恐怖や不満が、日本全体を巻き込むエネルギーになって幕府の崩壊に至ったことを、明治政府の運営を担った彼らは認識していました。

こうしたネガティブな感情をただ抑圧し、暴動を弾圧しているだけでは、明治政府も江戸幕府のように崩壊しかねないからです。


こうした事情は青江舜二郎の『石原莞爾』に描かれています。石原莞爾は後に満洲国建国で世界恐慌後の日本経済の復興を成し遂げるという国家プロジェクトのシナリオを書いたと言われる陸軍の参謀です。

この本を読むと、軍国主義が単なる軍人・軍部の暴走ではなく、日本人に共有された不安や恐怖、不満が非理性的なエネルギーになって、政治・軍事的な権力を動かしていったことがわかります。


遅れてきた帝国主義


欧米の先進国より遅れて近代化をスタートさせた日本は、鉄道などの社会インフラや軍備の充実・増強によって産業を育成していきます。

国土の狭い日本が経済を発展させていくためには、海外での経済活動が必要ですから、欧米列強を見習って中国、当時の清や朝鮮半島などアジアに進出していきました。

東アジアでの権益をめぐって清と衝突すると1895年、日清戦争に踏み切り、勝利したことで台湾を獲得します。1905年には満州・朝鮮半島の権益をめぐってロシアと衝突して日露戦争に踏み切り、勝利したことで南満州や朝鮮半島を獲得します。

戦争に勝って、相手国との和平条約によって獲得した領土ですから、日本にとっては不当な侵略ではなく、台湾や朝鮮、満州の植民地支配は、欧米列強の植民地支配と同様、正当な権利だということになります。

しかし、これは清王朝や帝政ロシアに対して主張できる権利であって、台湾や朝鮮、満州など現地の人々、勢力からすると話は別です。先住民族が中国からの移民に圧迫されていた台湾は、それほどでもなかったようですが、満州は清王朝のルーツである満州人の土地ですし、朝鮮半島は古代から国家による統治が行われていましたから、当然新しい支配者である日本に対して反発が生まれます。

特に中国では清王朝が倒れ、新たに誕生した中華民国は不安定で、軍閥と呼ばれる地方勢力がそれぞれ地元を支配する内乱状態になりました。

大日本帝国の植民地支配は、こうした現地の抵抗を武力で抑えながら行われ、現地の抵抗が激しくなればなるほど軍の存在意義が大きくなっていきます。


軍国主義のエスカレーション


先に触れたように、1930年代に世界恐慌が広がって、日本経済が大きな打撃を受けると、植民地経営つまり植民地からの収奪や搾取の重要性が増すと同時に、軍を増強すること自体が軍需産業の振興になり、経済復興に貢献するというメカニズムが機能するようになり、元々軍産一体型の経済振興を続けてきた大日本帝国は、さらに軍国主義化していきます。

世界恐慌から脱出するためと、ナチスによるドイツの復活など緊迫する国際情勢に備えるために、軍備増強を進めたのは、アメリカなどの先進国も同じですから、それ自体は異常なこととは言えないかもしれません。

異常だったのは、緊張が高まるにつれて、大日本帝国の政治システムが機能しなくなり、軍人によるクーデターが起きたり、政治家が暗殺されたり、軍人たちが政治を支配するようになったことでした。

天皇を神格化し、日本は神が統治する国だから無敵だとか、アメリカやイギリスはけしからんから戦争でやっつけろといった、非理性的で知能レベルの低い意見がまかり通るようになっていきました。

こういうのがナショナリズムの怖いところです。


素朴な感性


非理性的な意見は、あまり物事の仕組みを知らない素朴な人たちによって支持されるので、国の運営が機能しなくなると、国民の多数を占めるそうした人たちの感情が政治をおかしな方向へ押し流していくことになりがちです。

幕末には幕府の威信が低下すると、伊勢神宮のお札が降ってきたといったきっかけで、「ええじゃないか」踊りが流行したりしたといいます。日露戦争の講和条約に不満を抱いた民衆が暴動を起こしたのも、素朴な人たちの明治政府に対する不信や不満の表れでした。

江戸幕府も明治政府も、近代の民主政体に比べると強権的でしたが、強権的な政体も民衆の感情の爆発には意外に弱いものです。強権政治は権力を恐れる気持ちが民衆にあるから機能するのであって、恐怖を忘れるくらいの怒りは、暴動を起こした連中を逮捕して牢屋に入れても世の中から消えませんから、コントロールできないのです。


ナショナリズムと民意


1936年に首都・東京で起きた青年将校によるクーデター、いわゆる2・26事件は、天皇がラジオで断固として容認しない態度を示したため、武力衝突に至らず、反乱軍は武装解除され、首謀者は処刑されて終わりましたが、反乱に参加した将校や兵士たちの多くは地方の農村出身者で、当時の農村は大規模な飢饉で死者が出るなどひどい状態にありました。

軍の反政府行動の根底には、日本の人口の多数を占める農民の不満や怒りがあったのです。民衆に死者が出るような国家運営は根本的な失敗ですから、どれだけ強権的な政府でも、いや強権的であればあるほど失政の責任は大きいと言えます。

失敗の本質は、資本主義経済による近代化をめざしてきたにもかかわらず、資本主義につきものの恐慌で致命傷を負うほど、日本の経済が脆弱・未発達で、相変わらず農業が最大の産業だったこと、しかもそれを担う社会・経済システムが江戸時代からあまり変わらない状態のままだったことにありました。

この弱い経済を根本から改革する知恵も意志もないまま、大日本帝国は勝ち目のない戦争に突き進んでいったわけです。その結果、何百万人もの市民がアメリカ軍の爆撃で殺され、悲惨な敗戦を迎えることになりました。

戦後はこうした無謀な戦争を一部の軍人や政治家、官僚たちのせいにして、大部分の国民は戦争に引きずり込まれた被害者だとする風潮が広がりましたが、実際には軍の暴走による満州事変から、日中戦争、太平洋戦争の初期まで、素朴な民衆の中には、こうした戦争をある意味歓迎する傾向があったようです。

どんな全体主義、軍国主義も、意外と民主的なメカニズムからパワーを得るのです。

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