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三千世界への旅 魔術/創造/変革75 異なる価値観の接触が生む魔術

侵略・征服をめぐる法則


誰でも知っている歴史的なストーリーを簡単に書いてきましたが、技術的に優れた先進国が侵略の意図を持ってやってきたとき、後進国側がこれを防ぐことができたり、できなかったりしたことには、何か普遍的な法則があるんでしょうか?

いろんな事情が絡むとは思いますが、ひとつには先進国側がどんな思惑を持ち、どれくらいの覚悟を持っているかによるのかもしれません。

たとえば中南米を征服したスペインのように、黄金を略奪しようという強い意欲があり、圧倒的に優れた武器・装備を持っていて、戦う覚悟がある場合、先住民の能力や出方によりますが、戦闘や策略を臨機応変に展開することで、征服は可能です。

メキシコ中央高原のアステカや、南米のインカなど、中南米の主要な先住民は皇帝を頂点とした中央集権的な帝国を築いていたので、スペイン人は古代型の素朴な価値観を持つ皇帝をだまし、翻弄することで、わりとあっさり勝負をつけることができました。


先住民の政治体制


これに対して同じメキシコでも、マヤ族など南部の先住民は中央集権的な国家と首都を持たず、複数の部族が広域に分散していたので、征服には時間がかかりました。

今のアメリカ・カナダの北米先住民も広大な地域に多くの部族が分散していましたが、初期のイギリス人入植者は、中南米のスペイン人のように国・国王から派遣された遠征隊ではなく、どちらかと言うと国や国王に反発して新天地に移住しようとした団体だったので、最初のうちは先住民とそれほどいざこざを起こすことはありませんでした。

アメリカについて書いたときに紹介しましたが、最初にアメリカ北東部にやってきた清教徒が、準備不足で最初の冬に多くの死者を出したとき、同情した先住民は食べ物を恵んでくれただけでなく、土地に合った農作物の種を譲ってくれて、その育て方まで教えてくれました。

北米大陸はあまりに広大で、農業や漁業による食料の確保が容易だったためか、先住民が土地を国土として囲い込み、神経質に武力で防衛するような政治体制を厳格にとっていなかったのも、初期の北米入植者には幸いしたのかもしれません。

初期に北米大陸に渡ったイギリス人が波状的な移住・入植者だったのに対して、フランスは国・国王が組織的な遠征隊を派遣しましたが、東海岸はイギリス人とオランダ人に先を越されたので、フランスは今のカナダから南下しました。

スペインはメキシコから北上し、今のカリフォルニアからアリゾナ、ニューメキシコ、テキサスあたりへ植民地を開拓していきます。

イギリスも東海岸で入植者たちの開拓エリアが広がっていくにつれて、彼らから徴収する税金も増え、国・国王による植民地統治に本腰を入れるようになります。


国家の主権と領土の概念


こうしたヨーロッパ勢力の侵入に、北米先住民がどれだけ抵抗したのか、僕が読んだ本からはあまり情報を得ることができないのですが、彼らが部族に分かれていて、統一国家による効果的な判断や行動ができなかったため、ヨーロッパ勢にとってたいした脅威にならなかったのかもしれません。

現在歴史家に定着している説では、北米先住民が国家を持たない未開人だったというのは誤りで、北米大陸全土を統治する統一国家はなかったものの、部族ごとに国家の体制は存在したとのことです。

しかし、だったらヨーロッパ人がやってきた初期の段階から、国の代表者が入植者や遠征隊に対して、「ここは自分たちの国土であり、主権は自分たちにある」とか、「入植したいならしかるべき対価をよこせ」といった宣言・要求をすべきだったし、それを拒否されたら戦闘で彼らを殺すか国土から叩き出すべきだったと思うんですが、そういう国家としての意思表示はなされたんでしょうか。

なされたのかもしれませんが、もしかしたらそれはアステカ人がスペイン人遠征隊に、自分たちの信仰に基づいてお伺いを立てるようなコミュニケーションの取り方をしたのと同様、北米先住民の間でしか通じない論理、精霊が住む土地とか、そこに暮らす人間として精霊や自然と交信する意欲や権利といったものを前提とした主張だったのかもしれません。

入植地を広げていくヨーロッパ人と先住民のあいだでは、タバコや動物の毛皮などの交易が行われたといいますから、少なくとも先住民が国家としての領土やそこでの活動に関する主権に基づき、ヨーロッパからの侵入者を退去させるといったこと行われなかったようです。


自然と調和して生きる民族


そもそも北米先住民には、ヨーロッパやアジアで長い歴史を持つ国々のように、国家の主権とか国土・領土といった概念・仕組みはなく、自然やその精霊と調和しながら生きる大地があるだけだったとしたらどうでしょう?

そこには、そこで自然や精霊と共に生きる権利を主張したり認めたりする、彼らなりの土地領有の概念はあったのかもしれません。

しかし、そうした価値観は、今日の多様性を認めるグローバルな価値観の枠内なら認められるかもしれませんが、17〜19世紀のヨーロッパ人にとっては、野蛮人のたわごとと受け取られ、相手にされなかったでしょう。

北米先住民にも、中南米の先住民のようにとうもろこしなど農産物を育てたり、動物を狩り、革を加工したりする技術はありましたし、移動式のテントに住む先住民だけでなく、土や石で家を建て、都市を築いた部族もいました。部族を統治する組織や法もありました。

それらの仕組みは彼らなりの科学であり、理性であり、合理性の産物でした。

しかし、ヨーロッパ人は自分たちの近代の価値観を絶対的に正しいと信じ込んでいますから、先住民の価値観や仕組みは、単に遅れた野蛮な信仰のようなものと映ったでしょう。


無視された先住民の主権


たぶん北米先住民は、ヨーロッパ人が広大な土地を開拓し、自分たちのものとして囲い込んだり、町や都市を建設したり、土地や建物を登記して、商品と同様に売り買いしたり、法律を作って裁いたりしていることにどんな意味があるのか、彼らは理解できなかったのかもしれません。

わけがわからないうちに、ヨーロッパ人の北米開拓は進んでいき、次第に先住民は自分たちの土地を侵略されていることに気づきました。武力による抵抗も行われましたが、組織力や武器など力の差は歴然としていたので、開拓を止めることはできず、気がつけば先住民は自分たちの土地を追われ、浮浪者のような存在になっていました。

先住民に主権があり、北米大陸の土地とそこにあるすべてが本来先住民のものだったとすれば、そこに入植して開拓し、豊かな経済や社会を出現させたヨーロッパ人は、その過程で先住民に対価を支払ってしかるべきだったはずですが、実際に行われたのは野蛮人としての蔑視と、戦闘と、居留地への封じ込めでした。

先住民は無神経なヨーロッパ人に、自分たちの価値観や権利を無視され、戦闘で撃破され、ヨーロッパ流のルールによる支配を押し付けられたわけです。

これも異なる文明の異なる価値観が噛み合わなかったことによる魔術的な作用でしょうか。

結果としてはそう見えるかもしれません。

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