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三千世界への旅 縄文24 白村江の戦いと海の民

消えた阿曇比邏夫


前回、ヤマト王権に仕えた海の民阿曇一族の大物らしい阿曇比邏夫連(あずみのひらぶむらじ)が、新羅に侵攻されて危機に陥った同盟国・百済を救うため、軍を率いて朝鮮半島に渡ったことを紹介しました。

彼は天皇の代理みたいな感じで、ヤマトから送ってきた百済の王子・豊璋を国王に即位させ、百済再興のために活躍する百済の高官・福信の労をねぎらいます。

遠征軍のリーダーですから、天皇に委任されて天皇の代わりを務めても不思議はないのかもしれませんが、彼は『日本書紀』では「前軍」つまり先に半島に赴いた軍勢のリーダーであって、「後軍」には阿倍引田比邏夫臣(あべのひけたのひらぶのおみ)というリーダーがいます。

前軍が先に半島に渡ったから、天皇の代わりに百済の王子を王位に就ける役目を果たしただけなのかもしれませんが、この後、阿曇比邏夫連のことは語られなくなります。

前軍と後軍合わせて27,000人に新羅を討たせたという曖昧な軍事行動が語られますが、その後、新羅は唐と組んで白村江の海戦でヤマト軍を大敗させ、さらに百済や高句麗を滅ぼしていきますから、このとき新羅はたいした打撃を受けたわけではないようです。


白村江の惨敗


そこから『日本書紀』では、百済王になった豊璋が、優秀な高官の福信を処刑したことが語られ、白村江の戦いへと続きます。

この海戦でヤマトの海軍は「わが方が先を争って攻めかかれば、相手はおのずと退却するであろう」といった安易な考えで戦闘に臨み、待ち伏せていた唐の船団に包囲され、壊滅してしまいます。

天皇の代理を務めてかっこいいところを見せた阿曇比邏夫連が、この戦いで何をしたのかについては何も語られていません。

「みるみる官軍は敗れ、多くの者が水に落ちて溺死し、船のへさきをめぐらすこともできなかった」とありますから、戦闘で敗れたというより、海底の地形を知らなかったので、浅瀬で船が操縦不能になったところを弓矢で集中攻撃され、船から次々飛び降りて溺死したということなのかもしれません。

こうしたことが事実だとしたら、敗因は司令官の無能さだったんじゃないかという気もします。阿曇比邏夫連が海の民のリーダーだったとしたら、この無能さはちょっと気になります。

海の民・阿曇一族のリーダーだったとしても、ヤマト王権に仕えて出世した人物ですから、海の実戦経験は乏しかったんでしょうか。

ここからしばらく阿曇一族は出てこなくなりますが、なぜ出てこなくなったのかも含めて、この後の展開は海の民の実像に大きく関わってくるので、しばらくお付き合いください。


ヤマトの敗戦処理あれこれ


白村江の戦いの後、百済王・豊璋は数人と船で高句麗に逃げたと『日本書紀』は語っています。ヤマト軍は百済の人々を連れて引き返したようですが、詳しいことは語られていません。

翌年に朝廷の位階や役職を改定したことや、百済王族を難波に住まわせたことなどが淡々と語られた後に、百済を占領した唐軍の将軍・劉仁願が、郭務悰という官僚率いる代表団をヤマトに遣わして、ヤマトに上表文と捧げ物を奉ったという記事が出てきます。

ヤマトは大国・唐に戦いを挑んで惨敗したわけですから、これはおかしな話です。

唐からヤマト討伐軍が派遣されてもおかしくなかったでしょうから、この「上表文と捧げ物を奉った」というくだりは嘘ということになります。

『日本書紀』には、ヤマト王権を持ち上げようとするあまり、敵側がヤマトの威光に恐れをなして降伏してきたといった記述がたくさん出てきますが、その前後の展開と矛盾しているので、こうした嘘・脚色は大体わかります。

現にヤマト側は筑紫〈今の福岡〉に監視拠点を構築し、さらに水城と呼ばれる大規模な濠と堤防を築いたという話が次に出てきます。

また『日本書紀』には出て来ませんが、この時期、ヤマトが瀬戸内海の両側に百済様式の山城をいくつも構築したことが、近年の考古学調査でわかっています。

こうしたことから、唐とヤマトが軍事的に緊迫した状態にあったことがわかります。


中大兄皇子の抵抗


この後の展開から推測すると、たぶん唐はまず筑紫まで使節団を派遣して、ヤマト側の反応を見たのでしょう。

唐が本気になれば、大軍でヤマトに侵攻し、降伏させることもできたかもしれませんが、海を渡っての侵攻や、力ずくの植民地支配は手間もコストもかかります。

とりあえず「半島で唐に戦いを挑んだのはどういうつもりだったのか」と詰問し、武力侵攻をちらつかせながら、ヤマト側が服属の意を示してくるのを待ったのかもしれません。

唐が仏教を政治の基盤とするという、融和的なビジョンを掲げていたことが、ヤマト側には幸いしたんでしょうか。その後の壬申の乱を経て、ヤマトが仏教を国教化していく過程を見ると、唐は武力でヤマトを攻略するより、仏教による感化を狙っていたことがわかります。

しかしそれに対して、この時点でのヤマト側の最高権力者である中大兄皇子はかなり頑なな態度をとります。

彼は統治の実権を掌握した大化の改新以来、唐の仏教主導の統治理念に批判的で、中国の中央集権的な政治体制や先進的な技術の導入で、国の発展を目指す統治者でした。

唐の侵攻を迎え撃つ姿勢を見ると、白村江の敗戦や百済滅亡を経験しても、その路線は変わらなかったようです。

おそらくヤマトの官僚たちが筑紫で唐の外交団をなだめている間に、中大兄皇子は徹底抗戦を叫んで、防衛拠点の拡充を急いだのでしょう。


近江遷都と近臣・民衆の離反


そして白村江の戦いから4年目の667年、中大兄皇子は近江に遷都します。これも唐の侵攻を警戒して、より奥地に逃げたということなのかもしれません。

これに民は納得しなかったようです。

「当時、あらゆる百姓(おおみたから)は遷都を願わず、これを風刺するものが多かった。童謡(風刺する戯れ歌)も多く、また連日連夜のように火災がおこった」と『日本書紀』は語っています。

その翌年、中大兄皇子は即位して天智天皇になります。668年のことですから、645年に大化の改新で実権を握ってから20年以上経っています。

その翌年、腹心の家臣だった中臣鎌足が病気で衰弱が激しくなり、天智天皇は鎌足を直々に見舞って、「何かしてほしいことがあったら言ってみろ」と言います。

これに対して鎌足は「私のような愚か者に、いまさら何の申し上げることがございましょう。ただひとつ、私の葬儀は簡素にしていただきたい」と答えます。

これもちょっと引っかかるやり取りです。

天智天皇の言葉は、「何か俺に文句があるんだろう、言ってみろ」みたいに聞こえますし、鎌足の言葉は「あなたには言ってもわからないから言わない」と言っているように聞こえます。

つまり、鎌足は現実を見ないで唐に逆らい続ける天智天皇に批判的な考えを抱いていて、国を憂える心労から病に倒れたということかもしれません。

鎌足はそのまま亡くなり、天智天皇は藤原の姓を与えて、公に功をねぎらいますが、おそらく政治的にはこの2人は決別していたでしょう。鎌足は暗殺または処刑されたのだと見る人もいます。


大海人皇子の出家と天智天皇の死


その後、天智天皇は病気になり、弟の大海人皇子を呼んで「皇位を継いでほしい」と話しますが、大海人は陰謀の気配を感じ、「自分は体が弱いので出家します。皇位は大友皇子(天智の息子)に」と言って、吉野で出家してしまいます。

そのすぐ後に、唐の郭務悰がまた筑紫にやってきたという話が続きます。今回は計2,000人というかなりの人数を引き連れていました。

これに続いて、天智天皇の病床で息子の大友皇子が腹心の下臣たちと共に天皇の考えを引き継いでいくことを誓うくだりと、近江宮に火災が起きた話があり、天智天皇の崩御が語られて、この巻は終わります。

天智の死は即位のわずか4年後でした。


唐との連絡役に阿曇連


『日本書紀』の次の巻は天武天皇の治世を語っていますが、記述はもう一度天智の病気と、大海人皇子の皇位継承辞退、吉野での出家、天智の死を繰り返しています。

そして天皇の死を筑紫の郭務悰に伝えにいく使いとして、内小七位阿曇連稲敷(あずみのむらじいなしき)という人物が出てきます。

久しぶりの阿曇一族ですが、将軍とか比邏夫の肩書きもないので、軍司令官ではないようです。将軍・比邏夫として前に登場した阿曇連と果たして同一人物なのかもはっきりしません。

肩書きの最初に内小七位とあるので、朝廷の位はそんなに高くないようにも思えますが、白村江の敗戦の責任を負って降格された可能性もありますから、これも何とも言えない気がします。

はっきりしているのは、ずっと唐に刃向かってきた中大兄皇子・天智天皇が亡くなったと、唐の代表団に伝えるという重要な役割を、この阿曇連稲敷が担っていることです。

その意味で彼は外交の重要人物なのかなという気もしますし、海を越えて外交・交易・軍事に活躍してきた海の民の一族らしいと言えるかもしれません。

長くなったので、今回はここで終わり、次回は大海人皇子と海の民の関係について考えます。

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