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三千世界への旅 魔術/創造/変革44 近代の魔術22 中国革命の魔術4

反抗する若者


文化大革命でひとつ不思議なのは、紅衛兵として活動した若者たちが、なぜ大人たち、権力者たちに造反せよという毛沢東のアジテーションに乗せられて、暴力に走ったのかということです。

1960年代は欧米先進国でも反政府運動や、社会運動が広がった時代です。

アメリカでは世界恐慌から第二次世界大戦中にかけて、経済立て直しのために労働者の職場の確保や待遇改善が行われ、社会主義勢力との融和が進みましたが、戦後は保守派が巻き返し、いわゆる赤狩りが行われました。

これで社会主義・共産主義勢力は社会から排除され、衰退しましたが、60年代になると、戦後大人になった若者たちが、共産党のような古い政治結社に縛られない自由な立場から、世の中に反抗しだしました。戦後の復興期を経て、1950年代には経済が急成長し、豊かさの中で育った若者たちは、貧しさを理由に戦った古い左翼とは違う価値観で考え、行動するようになっていたのです。

ちょうどアメリカはベトナム戦争に深入りし、農民たちを残虐なやり方で虐殺していることが暴露されたりして、第二次世界大戦後、自由主義陣営の守護者として世界を統治しているつもりでいたアメリカという国のあり方が根底から揺らぎだした時期でした。

フランスやイギリスなど西欧でも、経済・社会が戦後の復興から発展へと転換していく中で、古い体制に対する疑問や不満が噴出し、若者たちによる反政府運動や文化運動が広がっていました。

中国で紅衛兵に参加した若者はこうした先進国と違って、経済発展による豊かさの中で育ったわけではありませんでしたが、当時の党や政府の指導部、社会の権力者層がやっていることに疑問や反感を抱いて、破壊的な行動に走ったという点では、共通する部分がありました。

世間知らずで純粋な若者たちは、大人たちが革命の理想を裏切って邪悪な資本主義の仕組みを導入しているとか、権力にあぐらをかいて私服を肥やしているといったことを、毛沢東一派から吹き込まれ、怒りに駆られて党の指導部だけでなく、行政や教育機関などあらゆる組織の幹部を吊し上げ、ポストから引きずり下ろしました。

元気のいい若者が好みそうな反抗を、毛沢東という最高指導者が煽っているわけですから、紅衛兵の運動はあっという間に広がりました。
体制側も、毛沢東という革命のカリスマが主導していることで、建前上は文化大革命を否定したり弾圧したりすることはできませんでした。


魔術の終わり 


しかし、こうした破壊はいつまでも続きません。国や世の中が機能不全に陥ると、これに対する反発が広がりました。

毛沢東も紅衛兵の暴走を抑えようとしましたが、すでにコントロールが利かなくなっていたとい言います。元々彼が煽動して、彼らはそれに共鳴したわけですから、その彼が急に方向転換しても、その言葉に力はありません。

大躍進のときも、毛沢東自身は経済に関する知識もノウハウもないので、ただ夢物語のような目標を掲げ、彼に盲従する党や政府、地方の幹部たちが、でたらめな施策を考え、実行していき、熱狂的に毛沢東を支持する民衆がそれに従って、無茶な取り組みをエスカレートさせていって、収拾がつかなくなったのですが、今回も彼が思いつきで民衆を焚きつけたことで、民衆が勝手に暴走を始めてしまい、彼が抑えようとしても耳を貸さなくなったようです。

そこで毛と党指導部は紅衛兵に次の目標を与えて、事態の収拾を図りました。次の目標とは革命の原点である農村に行き、そこに暮らして農民の仕事と暮らしを体験しながら、革命の基本を学ぶことでした。これは「下放」と呼ばれ、多くの若者がこれに従って農村に移住し、都市の破壊は収束していきました。

大躍進に続いて文化大革命で大失態をしでかした毛沢東は、また中南海に引っ込んでしまいます。彼の四度目の妻である江青など、いわゆる文革派と呼ばれる一派は活動を続けましたが、次第に勢力を回復した実務派勢力に包囲されていきました。彼らは毛沢東の死後逮捕されて有罪になり、無期懲役など重い刑を受けて、政界から葬られました。


政策の大転換と英雄たちの死


1972年、アメリカ大統領ニクソンが中国を訪問し、毛沢東や周恩来と階段し、米中国交回復への交渉をスタートさせます。ソ連を孤立させるため、経済的に疲弊していた中国を自由主義・資本主義陣営に引き込むことが狙いでした。

中国もソ連との関係を悪化させていましたし、社会主義国だけで経済発展を実現するというソ連流のやり方ではだめだということを体験的に学んでいたので、アメリカの誘いに乗ったのです。

日本もアメリカに続いて田中角栄首相が訪中し、国交回復へと動き出しました。

これはアメリカ・日本だけでなく、中国にとってもそれまでの方針を180度転換するものでしたから、世界中をびっくりさせました。

アメリカや日本の訪中団は、周恩来ら実務の指導者たちとの会談を通じて、小さな障害は後回しにして大きな枠組みについて協力していくことで合意しました。

毛沢東はこうした難しい会談の後、ニクソンや田中と会い、にこやかに握手する様子が世界に報道されましたが、すでに文化大革命の失敗で実権を失っていて、お飾りの最高権力者でしかありませんでした。

この頃から中国は鄧小平がリーダーになって、文化大革命で停滞していた経済の立て直しを再スタートさせます。

1976年1月に周恩来が亡くなり、7月に朱徳が亡くなり、9月に毛沢東が亡くなると、中国革命は建国の英雄たちの時代を終え、鄧小平による改革開放の時代へと移っていきました。

二度も大失策をやらかした毛沢東は、それでも革命を実現させた最高指導者という表向きの位置付けと尊厳を失わないまま葬られましたし、朱徳も文化大革命の勢いが衰えた頃には名誉を回復されて、内戦の英雄、人民解放軍の父として見送られました。


不思議な周恩来


この3人の建国の父たち中で一番不思議な存在
は周恩来かもしれません。

彼は毛沢東より年下ですが、中国共産党が誕生した頃からの党員ですし、ヨーロッパ留学や現地での政治活動の経験もあり、党が大都市で武装蜂起して国民党に弾圧され、内陸部へ逃亡した頃には、党の最高指導者でした。

内陸部で拠点を拡大していた毛沢東・朱徳らの組織と合流した時点では、共産党内での序列は彼らより周恩来の方が上だったのです。

共産党と紅軍はそこからさらに内陸へ退却を続けて延安に辿り着き、そこを拠点に日本軍との戦争や国民党との戦いを続け、次第に勢力を拡大していくのですが、毛沢東が最高指導者になったのは、この延安への退却(中国共産党はこれを退却と言わず、ポジティブに『長征』つまり壮大な征伐の戦いと呼んでいます)の途中だったと言われています。

毛を最高指導者に推薦したのは周恩来だったようです。

彼は都市型の組織拡大や武装蜂起の失敗の責任を感じていたと同時に、毛沢東と朱徳の山村から拠点と支持層を拡大していく戦略の成功を高く評価していて、毛を最高指導者にすることで、この戦略を党と軍全体で推進していこうと考えたのでしょう。

以後、毛をカリスマ指導者として崇めながら、自分はその下で実務に徹するという周恩来の役割が死ぬまで続きました。

『中国の赤い星』を書いたエドガー・スノーが延安を訪問したとき、彼を出迎えたのは周でしたし、ニクソンや田中角栄を出迎えて主要な会談を行なったのも彼でした。鄧小平を登用して経済改革を指揮させたのも彼だったと言われています。

不思議なのは、彼が建国後にずっと首相を務めていて、国政の実務を取り仕切る最高責任者だったのに、文化大革命で劉少奇や鄧小平、朱徳など多くの実力者たちのように攻撃されたり追放されたりしなかったことです。

文化大革命の様子を伝える映像には、毛沢東の横で腕を振り上げながら「革命の敵をやっつけろ」みたいな文句を一緒に叫んでいる周恩来の姿が映っています。それまでの経済改革路線の責任を追求されてもおかしくないはずなのに、いち早く毛沢東の側について、文化大革命推進派のようなフリをすることで、追求を免れたのだという感じに見えます。

『マオ』を書いたユン・チアンも周恩来を、一貫して毛沢東の下僕として仕えた卑屈な人物として描いていますが、そう見られても仕方がないようなところが確かにあります。

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