見出し画像

三千世界への旅 縄文5 新潟の火焔型土器を訪ねて

新潟・十日町市博物館



東京の縄文土器を見ているうちに、いつか縄文展で見た火焔土器が見たくなり、新潟に行ってきました。

コロナ禍で引きこもっていたせいで意識が萎縮しているのか、本で縄文時代について読んで、ただ知識に触れているだけでは物足りないというか、実感が湧かないので、東京で縄文遺跡と土器に触れたのをきっかけに、ひとつ旅でもして、脳を刺激してみようと思ったからです。

まずめざしたのは十日町の博物館。国宝に指定された笹山遺跡出土の火焔土器があるところです。

別に国宝だからいいというわけではありませんが、6年前の縄文展で見た火焔土器もそれなので、再会してみたいという思いもありますし、他にも縄文らしい派手な土器や器具、装飾品がたくさん展示されているとのことで、もしかしたら現地ならではの発見・学びがあるかもしれません。


現代美術推しの遊歩道


出かけたのは11月半ばの平日。秋から冬にかけて雨・雪の多い新潟ですが、この日は快晴で温かく、絶好の散歩日和でした。

十日町市博物館は十日町駅の西側、商店街がある東側と違い、静かな住宅エリアを10分ほど歩いたところにあります。

駅の案内所でマップをもらい、係の人に「緑道を歩いていくといいですよ」とおすすめされたので、広場の北の端にある緑道入り口から、落葉した枝垂れ桜がところどころに植えられている遊歩道をのんびり歩きました。

最近はスマホの経路ガイダンスを頼りに歩くことが増えましたが、観光案内所で手作り感のあるマップをもらって、教えられたルートを歩いてみるのも、旅らしくていいですね。

十日町は現代美術推しの町らしく、緑道のところどころに彫刻が立っています。「現代美術館と立ち寄り温泉が合体した施設があるので、行ってみたら」と新潟好き・酒好きの知人から聞いていたのですが、美術館に収まりきらない作品が屋外に展示されているようです。


この彫刻の作家、どこかで他の作品を見たことがある気がするんですが、思い出せず。


駐車場にドカンと巨大な土器型モニュメントがお出迎え


写真撮影OKの寛大さ


博物館は駐車場に巨大な火焔土器のモニュメントが立っていました。建物は大きなガラスの現代建築。まだ新しいようです。

入場料は500円。写真撮影OKで、商用でなければSNSなどネットにアップしてもいいとのこと。最近には珍しい寛大さです。

縄文をもっと世の中に知ってもらいたいということでしょうか。

最近は縄文文化が海外にも紹介されて、世界的に関心が高まっているという話を耳にしたことがありますが、今年のインバウンドの盛り上がりの割には、平日午前中の来館者に外国人は1人もおらず、僕以外に数名の年配客のみ。

徳島県の山奥の村に外国人が押し寄せたりするような現象は、少なくとも十日町には起きていないようです。

縄文土器は十分フォトジェニックだと思うんですが、それプラス何かその土地ならではの体験ができないと、外国人の日本マニアを惹きつけることはできないんでしょうか。


まずは美の世界にうっとり


博物館には豪雪地帯の暮らしや、絹織物の歴史を紹介する部屋もあって、昔の農家を再現したセットにはなかなかリアルな人形がいたりしてなかなか見応えがあります。

しかし、こちらの頭は縄文モードなので、ささっと眺めて縄文の展示室へ。

国宝の火焔式土器など、美しい土器が美術品のようにされています。

確かに美術品として鑑賞するに足る美しさです。

しかし、展示の解説によると、火焔式土器も火で焼かれて黒くなった跡や、内側には食べ物を煮炊きして焦げた跡があって、あくまで実用品として使われていたとのこと。

そこがまたいいですね。


実用性と神秘性


美術品として観賞用に作られたわけではないということは、見る人に「美しさとはこれだ」というコンセプトをアーティストとして提示ているわけではないということです。

あくまで日常的な食べ物の煮炊きに使って、割れたらゴミ捨て場に捨ててしまう。現にゴミ捨て場の跡から火焔土器の破片がたくさん見つかっているそうです。

しかし、実用的なものだからシンプルな形でいいわけではなく、縄文中期の人たちはそこに自分たちなりの造形を施したわけですが、それはなぜだったんでしょう?

いろんなことが想像できます。

たとえば彼らは火の力に神秘的なものを感じていて、食事のための煮炊きに使う火の力とシンクロするような力を土器に込めるため、力強い造形を施すようになっていったとか。

火自体が生命の源としての力を持っているだけでなく、火で煮炊きする食べ物も、彼らの生命を維持する力、生きるエネルギーを与える力があると感じていて、土器は火と食べ物の力を宿す容器だったとか。



無名の作り手たちの交流


縄文時代は弥生時代と違い、集落で暮らす集団も小規模で、貧富の差や身分といったものもなく、職業の専門性も確立されていなかったようなので、土器を作る専門の職人がいたわけでもなく、自分たちで使う道具を作っていたと言います。

だから縄文中期のように温暖で、食物の確保にあまり苦労しなかった時代に、自分たちが感じるままに、作る手間のかかる複雑なかたちの土器を、自然と作るようになったんでしょう。

展示のボードを見ると、火焔土器は新潟県の広いエリアで発掘されているだけでなく、長野県や北関東、東北の縄文土器にもその影響が及んでいると言います。


縄文時代は集落がネットワーク状につながっていて、情報交換や物物交換、婚姻などによる人の行き来があったとのことです。

近隣の村でいい感じの造形が生まれたら、それを真似してみたりするといったことがあったのかもしれません。

かなり離れた場所で、十日町とそっくりの火焔土器がたくさん発掘されていますから、いろんな集落の人たちが気に入って何かと交換して持ち帰り、それを元にコピーを作ったのかもしれませんし、作り方を教えあったりといったこともあったのかもしれません。

土器に見惚れているうちに、色々勝手な想像が膨らんできます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?