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マスクなしで別人に見られた私がルッキズムを考える


前に働いていた職場で、

“天然”で有名な先輩職員にマスクを外した・・・・・・・状態で初めて会ったとき

「はじめまして~😊」

と言われたことがありました。


マスクを着けていたときと着けていないときで

私の顔が同一人物と認識されていなかったことになります。


ここで問題です。

え?これは良いギャップ?それとも、マスクを外したら思ったような顔じゃなくて別人扱いされた??

事の真相によっては、ちょっとした心霊体験よりもずっとホラー・・・です。

願わくば、前者のほうであってほしい…。


というような経験をした私ですが、前からずっと気になっていたことがあります。

それは、、、



なぜ容姿の整った、いわゆる美人やイケメンと言われるような人はモテるのか



ということです。


よく、この問いの答えとして、

顔が左右対称な人が優秀な遺伝子を持つとみなされモテるとか

肌がキレイなことが結構重要な要素になっているとか

いろいろなことが言われています。

ただ、生物学的な理由としてはそうなのかもしれませんが、

なんだかイマイチ納得しきれないところがあります。


私が知りたいのは、生物学的な“原因”というよりもむしろ

世俗的で社会的な背景をもつ人の“心理”としての、モテ現象のからくりなのです。



なぜ容姿の整った、いわゆる美人やイケメンと言われるような人はモテるのか

私が思うにそれは、


美人やイケメンは“消費される”から


ではないかと、感じています。



日本の女性はうっすら“醜形恐怖症”を患っている


私には高校生の姪っ子がいて、叔母バカかもしれませんが、かわいらしい顔をしています。

そんな彼女の口ぐせは、「かわいい」です。

テレビやネットで有名人や外国人を見かけては、「かわいい」を連呼します。

そして、ふいに写真を撮られることを嫌います。

「自分の鼻は低い」「二重幅がせまい」などと、自分の容姿に対する不満を言います。

容姿に自信がない人に比べて、恵まれていると思える彼女ですら

自分の容姿にどこか自信がないようなのです。

さて、それはなぜでしょうか。



こころの病の一つに、醜形恐怖症という病気があります。

醜形恐怖症の人は、実際には欠点はまったくないか、ささいなものであるにもかかわらず、自分の外見には大きな欠点があると信じ込んでいます。外見にとらわれるあまり、特定の行動(鏡で自分の姿を確認する、過剰に身づくろいをする、自分と他者を比べるなど)を繰り返し行います。

MSDマニュアル 家庭版 醜形恐怖症より引用

醜形恐怖症とは、自分の外見を必要以上に気にするあまり、日常生活に支障をきたす病気とされています。

自分の外見とは

本人が認識している薄毛、にきび、しわ、傷あと、肌の色、顔や体の毛深さなどで悩みます。また、鼻、眼、耳、口、胸、脚、尻といった体の部位の形や大きさが悩みの対象になる人もいます。

MSDマニュアル 家庭版 醜形恐怖症より引用

とあります。

通常青年期に発症し、どちらかというと男性よりも女性に多いと書かれていますが、少なからず私の中にも心当たりがあります。


そもそも自分の外見を気にすることは、思春期にはよくあることです。

思春期になると、それまであまり見なかった鏡をしょっちゅう見ては、少しでも魅力的に見えるように髪を直したりします。

しかし興味深いことに、ダヴが2017年に発表した『少女たちの美と自己肯定感に関する世界調査』によると、

10〜17歳の日本人女性のうち、自分の容姿に「自信がない」と答えた人は全体の93%だった。

日本の女性は、世界で一番「見た目」に自信がない。調査でわかった7つのこと

とあります。

その次に自分の容姿に自信がない人は、中国の65%だったので、

日本の93%がいかに高いかわかります。

もちろんこれは単純に比べられるわけではないのですが、

とりわけ若い日本人女性は、みんな“うっすら醜形恐怖症のような心理”を抱えている

ということが言えるのではないかと思います。


行き過ぎた消費至上主義が外見コンプレックスを加速させる


どうして日本人女性は、自分の容姿に自信がない人が多いのか。

これにはさまざまな要因が考えられますが、

私が個人的に思うのは、いきすぎた消費至上主義が背景にあるのではないかということです。


私たちは、生まれたときからテレビやネットなどを通して、他者の存在が異様に近い・・・・・環境にいます。

その他者も、“ただの他者”ではなく“容姿が整った他者”です。

そして私たちは、知らぬ間に美の基準を植えつけられ、

彼らと自分を比較することで、自動的に自分の容姿にコンプレックスを持つようになります。

そして、そんな他者に憧れ、彼らのように美しく魅力的になることを目指し消費活動をするようになります。


若くて美しい芸能人が商品を宣伝している光景が、日常に当たり前にある。

そんな社会では、どんなに容姿が整っていようと何がしかのコンプレックスを抱いてしまい、

それを解消するために消費することを促進される心理状態におかれる、と言えます。


“美”を消費することがあからさまになった現代


私は30代半ばなのですが、昔と比べて、今の時代はあからさまに“美”を消費するようになったと感じます。

肌感覚として、昔は美を消費することに、どこか“後ろめたさ”のようなものを感じていたように思うのです。

外見の美しさだけを切り取って人を判断することは、その人に対して“失礼”であるという空気が、存在していたように思います。

芸能界でも、キレイすぎる・・・人は嫌煙され、それ以外の魅力も総合的に判断されていた人が活躍していた気がします。


以前、NHKのチコちゃんに叱られる!で

“浮世絵に描かれる女性の顔がみんな同じなのはなぜ?”の問いに、

おもしろい回答がありました。


それは、


“顔はどうでもよかったから”


というものです。


浮世絵は、顔以外の要素(服装、仕草、背景など)からその人物の美しさを連想し、楽しむものとされていたそうです。

それだけ美の基準は人の中にあって、昔の日本にはそれぞれが美を楽しむ文化があったのです。


それが今は、とにかく美しいことが前面に売り出され、逆にそれ以外の要素はあまり必要とされていないように感じます。

モデル出身の俳優が棒演技だと叩かれたり、アナウンサーがニュースの原稿を読み間違えて非難されるのも、今の時代に特有の現象な気がします。

そういった批判から、

顔さえよければ、演技が棒であろうと原稿を読み間違えようとかまわない

というような社会の風潮を感じます。

まるで、美しさの“インスタント化”が進んでいるように思います。

ゆっくり、じっくり生成された美しさを愛でるのではなく

もうすでに出来上がった美しさを、次から次へと絶え間なく消費していく。

特に、年を重ねた芸能人(特に女性)が“劣化”と揶揄されることも、この現象を物語っているように思います。

消費社会が発達すればするほど、美しさも瞬く間に消費されていく。

それが現代の美の消費スタイルなのではないでしょうか。


スキャンダルで炎上する理由と有名人が抱える孤独


SNSが普及し、誰もが美を消費し、また消費されるようになりました。

そこに、顔だけで判断するなんて相手に失礼だしもってのほか、という基準が入るすき間はなくなりました。

そんな美の消費には、ある問題が潜んでいます。


通常、消費するというのは、“食べたり飲んだり使ったりすること”を意味します。

消費とは

使ってなくすこと。金銭・物質・エネルギー・時間などについていう。「ガスを―する」「―電力」
人が欲望を満たすために、財貨・サービスを使うこと。「個人―」

goo辞書より

とあります。

ただし、私たちが美人やイケメンを消費する時、何を具体的に消費しているのか見えてきません。

“あの子、カワイイな”
“あの人、めっちゃイケメン”

と思っても、思われた本人たちは実際に消費・・されることはありません。

その消費は、カワイイ!イケメン!と思った人の中だけで行われることなので、目に見えて何かが減ったりするものではないからです。

ジロジロ見られても、“別に減るもんじゃないし、いいじゃない”と言われるようなものです。


けれど、ここに一つの問題があります。


それは、美人やイケメンな人は、

まわりから勝手に幻想を押し付けられ、“善い人”であることを強要される、ということです。



美人やイケメンな人(アイドルのような人たち)は、例えていうのならば、空っぽの高級ブランドバッグのようなものです。

その“見た目”が美しいので、人は勝手に理想や幻想を抱き、その中に思い思いに色々なものを入れようとします。

自分というバッグには似合わなくて入れられなかったものが、美人やイケメンのバッグには入れることができるからです。

美人やイケメンを見ることで消費するとき、私たちは自分の存在を忘れ・・

ある種、幽体離脱化し彼らに憑依・・し一体化することで、その美しさを消費しようとします。

憑依・・と言うのは、“自分のため”に自分の時間やお金を使うのではなく、

DVDやグッズを購入するために課金したり、プライベートな時間を削ってまでオタ活をするということです。

しかしその消費によって、つまり“善い人像”を押し付けることで、その人から本来の人格や個性は奪われてしまいます。

推しの“熱愛”や“金銭トラブル”などのスキャンダルが明らかになったとき、憑依していた人たちが怒り出すのは、

高級ブランドバッグだったと思っていたものが、実は誰にでも手が届く安物のバッグだったことを思い知らされ

自分がそれまで費やしてきたお金や時間がすべて無駄になってしまった、損をした、騙された、と感じる心理があるように思います。



そんな虚像を売り物にする有名人は有名人で、メンタルに問題を抱えやすい一面を持ちます。

なぜなら、自分の若さや性を売り消費されることと引きかえに、この“善い人像”を引き受けなければならず、

本来の人格や自分らしさを否定されてしまうからです。


有名人がタトゥーを入れたり、不特定多数の異性と関係を持ったり、薬物に手を染めてしまうことによって、隠れて自らの商品価値を下げる・・・・・・・・ような行為をする理由の一つには、

この“善い人像”を引き受けることへの拒絶や、反動としての自分らしさの表現を目的としている背景があるのではないかと思います。


ただ見られることが“減るもんじゃない”と割り切れない理由


本来消費と言うのは、“奪う”ことでもあります。

自分たちが持つ理想像を押し付けることで、彼らから“自分らしさ”を奪うのです。


こんな人でいてほしい
こんな人であってほしい

という願望をぶつけ、自分の欲望を満たそうとすることは、相手の人格を奪うという意味で、立派な消費行為です。

しかし、美は消費されても目に見えて何かが減るわけではないので、

消費する側もされる側も、実際に消費が行われていることに気づきにくい面があります。

特に一般人になると、それは顕著になってきます。


例えば、職場で思い当たるフシがないのに、あまり親しくない同僚からジロジロ見られるということがあります。

そして、そこになんとも言えない不快感と屈辱感を抱きます。

本来、ジロジロと見られたとしても、実際には何かが減っているわけではないので、それほど気にはなりません。

しかし、“見てくるだけならいいじゃない、減るもんじゃないし”

という感覚には、到底なれないのです。

中には、気に病みすぎて仕事に支障が出てしまうこともあります。

そういった相談を、ネットで見かけることもよくあります。

ただ見られるだけなのに、なぜこうもイヤな気分になるのでしょうか。


それは、見られることで自分が性的に消費され、自分らしさや人としての尊厳を踏みにじられた感覚に陥るからです。

ジロジロ見られることはつまり、あなたは性的に魅力だというメッセージを相手から送られるということです。(好意から見ている場合)

ただそれが送られた側からすると、自分勝手で自己中心的な理想像を押し付けられた、という不快感しか残りません。

自分の人格を無視され、勝手な理想像を押し付けられたことで自分の領域が侵害されたように感じられ、

“減るもんじゃない”と割り切って考えることができないのです。

相手をジロジロ見るという行為は、立派な消費行動なのです。一方的に相手から自分らしさや尊厳を奪う“略奪行為”になるのです。

けれど、なんとなくイヤ、気分が悪い、ストレスだと感じることはあっても、

自分が性的に消費されている被害者だとはっきりと自覚することは、なかなか難しい面があります。

なぜなら見られているだけだから。何か言われたり、された訳では無いからです。

また、社会的にもそういったことが深刻に扱われず、当事者だけが悩みを抱えてしまうという現状もあります。



おわりに


1961年に、市川雷蔵さん主演で『好色一代男』という映画が公開されました。

そこに、若尾文子さん扮する絶世の美女と謳われた夕霧太夫が登場します。

夕霧太夫は、“年はとりたくない、年をとったら自分には価値がなくなる…”と嘆きます。

その若さ至上主義ともいえるセリフに、60年以上の時を超えて身につまされる気がします。

夕霧太夫が嘆いた“年をとること”や“若さからくる美しさを失うこと”の恐ろしさが、

ヒリヒリとした生身の感覚をともなって、伝わってくるのです。

この夕霧太夫のセリフは、“若さ”や“性”を売る職業についていた背景があったからこそでした。

しかし、この60年の間に消費社会が肥大化し、“美”が堂々と消費されるようになったことで

“若さからくる美しさを失うことの恐ろしさ”を抱えることは、一部の職業の人だけではなく、

今を生きる人誰もが共有させられて・・・・・いる状況にあるのではないかと感じます。






…話が思ったより壮大になってしまいました。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


(参考文献・ネット記事)

  • ルッキズムを考える,現代思想2021年11月号,青土社

  • 美貌格差―生まれつき不平等の経済学,ダニエル・S・ハマーメッシュ


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