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5カ月近く続けてきた私にとってのnoteの意味


数日かけて書いた思い入れのある記事は思ったほど反応がなく、

逆に、特定の人に向けて取り急ぎと思って短時間で書いた記事の方が反響が大きかったりして、

noteの小悪魔的な性質にふりまわされている今日この頃なのですが(ザ・noteあるある!)

そんな中で、5カ月近く続けてきたnoteに対する自分の考えにふと気がついたので、今回はそのことについて書こうと思います。




結論から言ってしまうと、私にとってのnoteはとても“神聖”なものということです。

バーチャル上にある単なる自己表現の場にすぎないのに、神聖なものと表現することに違和感を持たれるかもしれませんが、

私にとってnoteはとても神聖なものなのだということに、最近気がつきました。


というのも、諸事情あり初期のころの記事は消したりもしたのですが、

私は過去の自分の記事を読み返して、変な話ですが励まされたり勇気づけられたりするんです。


過去の自分からの“エール”と言いますか、“今のあなたは間違っていないよ”、と過去の自分から背中を押されているような気になるのです。

いい記事書いてんじゃん、と自分に対する謎の上から目線で自画自賛したりもします。

こんなことを書くと、え?ナルシストかなにか?と思われるかもしれませんが、

こういう自画自賛タイムって、けっこう大事なんじゃないかと思ったんです。

もちろん、背伸びしすぎたり、他人軸な状態や、主題が定まっていない状態で書いた記事は読み返してもイマイチなのですが(それはそれで自分の精神状態がわかるのでいいのですが)

とことん自分の弱さと向き合って、長い時間かけてもがいて苦しみ抜いた先に見えたものをまとめた記事は、

時間が経ってから読み返しても、ものすごく勇気をもらえるし、自分は自分でよかったと思えます。

今の自分に続く確かな足跡を実感したような感覚になり、すごく安心するんです。

私はnoteを始めて5カ月近い間に、そういった自己受容を深めることができました。

もちろんネット上に公開しなくてもこうした作業を行うことはできますが、

やはり記事を公開して人に共有してもらうのとでは、いろいろと違ってくるなと感じます。

それは、同じような経験をした人たちから反応をもらったり、同じような経験をした人が書いた関連記事を読むことで、

自分の記事が“強化”されていくような感覚がするということです。


自分一人が悪戦苦闘していたと思っていたけれど、そうじゃないんだ。

同じように苦しんでいる人がいて、同じようにもがいている人がいて、そんな人たちと励まし合っている。

そんな感覚が、私にはとても心地よいのでした。



記事を書くことは、相当のエネルギーがいります。

そのかわり、記事を書くことは言ってしまえばものすごくスピリチュアルなことだと思うんです。

記事を書くことで自己内省が進み、頭の中がスッキリして、その結果自分自身に救いをもたらすものだと感じています。

過去の情念を成仏させることもできます。

そこまでいかなくても、記事を書くことで気づきや発見がもたらされることが多々あります。

私にとってnoteで記事を書くことは、自分自身と向き合う貴重な時間であり、豊かな時間を自分にもたらしてくれるものだと気づきました。


もとより、

日常で感じたこと、考えたこと、見聞きしたものを、点と点をつなぎ合わせるようにして記事にすることが、単純に楽しいです。

と同時に、最高に高尚で贅沢な時間だなとも思います。(自分が今無職なこともあって特に)


大人になると、どうしても心から楽しい!と思えることがなかなか見つけられない中で、

noteは、“自分でいる時間”をより楽しく豊かにしてくれるツールなのだということに気づきました。


ということで、これからもせっせと“ナルシストタイム”を楽しんでいきたいと思います🤗

改めまして、これまで私の記事を読んで頂いた方、スキをつけて頂いた方に感謝いたします。ありがとうございます🥰

今後とも、ゆる~くお付き合い頂ければ幸いです。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。



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