時空のひずみにて
秋晴れの心地よい休日。
そらが、薄水色で、浅いようで深くて。
自衛隊のヘリコプターが、パタパタパタ・・・・と、爽やかな秋空を旋回していた。
今日もまた、ぶらぶらと、図書館まで散歩に行った。
先週、秋祭りが開催されていた神社で、今日は「骨董市」がやっていた。
たくさんとは言えないまでも、いろいろなブースがあり、それぞれ、陶器やら、キャラクターものやら、日用雑貨やら、アクセサリーやらの骨董品が、特設のテーブルの上やら、ゴザの上やらにわらわらごちゃごちゃと並べられていた。
日本の古き骨董品たちが、誰かの手に取られるのを期待の目でわくわくと胸を躍らせ、通りすぎる人たちを見つめ、じっと、待っているようだった。
「わたしを、みつけて!わたしに、触って!」
いかにもうさんくさいひとたちがそれらを売っているのだが、それにしても値段が高いのだ。
気に入った品物があったのだが、衝動買いをするにはとってももったいない金額だった。
それはおそらく、大阪に住んでいた男性のかたが集めた、マッチのラベルの収集冊子だった。
昔ながらでしかありえない、今となっては新鮮なデザインのマッチの大量のラベルが、丁寧にひとつひとつ、ディスプレイされて貼られていた。
バー、うなぎや、定食や、床や、民宿、カフェ、・・・・・・・などなど。
収集していたかたの、真面目で神経質な性質だとか、よほど、それらの収集にはまっていたことだとか、どこかで外食するときや旅行などのときの、楽しみであっただろうことだとか、
大事に、大事に、保管してあったのだろうと、推測できるほどキレイな保存状態とか、
きっと、持ち主の方は、もう、亡くなられてしまっているのだろうということとか、
いろんな想像が、わたしの頭の中を駆け足でぐるぐると駆け巡った。
べっ甲の櫛だとか、銀製のお弁当箱だとか、使用できるのかわからない古い古いカメラだとか、
それらに触れるたびに、持ち主の想いや生活などを想像してしまう。
というか、乗り移ってくる・・・・・という言いかたの方が、当てはまっているのかもしれない。
それは、わたしの想像でしかないのだが、でも、それらの持ち主たちは、わたしがそれらに触れるたびに、わたしの想像の中で妄想の中で、息を吹き返し動き出すのだ。
イキイキと、生活を始めるのだ。
時代という時間のうねる渦の中の、突然現れた「ひずみ」に、ふと、足をとられてしまったように感じ、
ここが、本当に自分の居場所なのか、はたまた、ここが自分の居るべき場所ではなく、いつのまにか間違ってしまったのか、少し、戸惑いを覚え、
顎を上げ、目を細め、助けを求めるように、頭上の木々を見上げた。
まだ、緑色が半分ほど残り、うっそうと茂る、賑やかな枝たちの隙間に、
一枚、
空中にくるくるくる・・・とまわる、黄金色の枯葉を見つけた。
おそらく、くもの巣にひっかかっていたのだろう。
その枯葉は、空中で身悶えするように一心不乱に踊っていた。
まるで、
絡まるくもの糸を振りほどくべく、がんばっているようだった。
おとなたちからの束縛から逃れたい一心の、幼児のようだった。
ジタバタジタバタと、もがいていた。
しばらく、その枯葉の悪あがきに見惚れ、口をポカン・・・・とあけながら、神社の一角で、天を仰いで、立ちつくした。
骨董品を見て、こころが研ぎ澄まされたせいなのか、その、一枚の踊る枯葉を見て、
すべての事柄に、「無意味」というものは、ないのだ・・・・と感じた。
すべて、繋がっているのだ・・・・と感じた。
あんなふうに、人知れず踊る枯葉にも、あたかも、生命が宿っているかのように見えるし、
そして、それを、「無意味ではないこと」と感じられる、ここにある生命が存在する。
なんだか、今、生きて、ここに立っている自分自身が、とても尊く感じた。
一緒にいる人々、わたしの人生に接する人々すべてが、とても、尊く感じた。
人生は、ステキだ。
ふいに、すべてのひとに、「ありがとう」と、言いたい気分になった。
※色褪せない過去の日記より
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