見出し画像

自分の魂を垣間見る~絶望しないこと 普遍的なビジョンを生きること

エソテリックヒーリングのティーチャーであるエレカ先生のラージャヨガコースを今、受けている。これは7年間でラージャヨガの指導者になるというコース。7年です(;^ω^) 別に自分のための学びなので、資格はどうでもいいのです。

ヨガ哲学ではヨーガスートラについて学びます。そこで、自分の嫌悪や執着恐れなとについて自覚的になっていくため、宿題が出ますが、先日、自分の中では大きな気づきがありました。

自分用の記録です。

自分の中では311が大きな転換期になっています。それ以前にも、その時々に、自分の「人生の危機点」があり、山あり谷ありで、少しづつ進んできました。

目標を決めたらそこに向かって突き進むという、アセンダント射手座的な性質があるので、あまり谷底は深くなく、何かにぶつかっても、前進するという、なんでも力で突破するところが、良くも悪くも自分の中にあります。

ただ、311だけは個人的な問題ではなく、自分が住む地域や日本というもっと大きな問題だったので、勝手が違いました。個人的になんとかできる範囲の中では、同じように前進する、突破する力が通用しても、どこかで必ず集合的な想いや社会の壁のようなものにぶつかりました。

そこで、否応なく自分のやり方を変える必要がありました。出来なくなったもの、失ったものを補完するために別なことはじめたり、自分のやり方を変えることで、目から鱗が落ちること、学びになることは数多くありました。そして、自分が集中して楽しく取り組めるテーマも見つかり、人にも役立つように努力もしているつもりなので、高望みせず、自分が出来ることの分をわきまえつつ、やれることをやっている、と思っています。

しかし、311以前にやりたかったこと、「自然と共生する暮らしをつくり、地域も持続可能にしていく」という、目指すことに対する良いやり方が見つからずに、出来ない自分、挑戦しても挫折する自分を残念に思っていました。出来ている人たちは凄いなと思うし、リスペクトしています。反面、うらやましくもあり、福島じゃなかったらもっとやれたかもしれない、と思ってしまうこともありました。

宿題とはいえ、自分の執着や嫌悪をじっくり見るのはイヤなものです。あることは分かっているので、ま、いいか、と深く向きあっていなかったところです。そこでいろいろと瞑想や熟考をしてみました。

すると、急に「まてよ、形にはなっていないかもしれないけれど、それなりに役に立っていることはあるはずだ」という感覚が浮上してきました。

そこに目を向けてみた時に見つけたのは、「危機点」に遭遇した時に、絶望したふりをして実は絶望していない自分がいるということです。かといって、リーダーシップをもって引っ張っていくわけでもないのだけれど、どこかに解決法や出口があるということを確信している自分がいるということに気づきました。

もう一つは、常に、次なるビジョンを求めている自分がいるということ。このビジョンや世界観はもう使えないと思ったら、そこに執着せずに、より普遍性の高いもの、宇宙の真理に沿っているものを探求することができる性質があるということ。これは、まさに射手座的なところです。

「ビジョンに沿って行けば必ず出口は見つかるし、何とかなる」という感覚がいつもどこかにあるのです。みんながあたふたしている時に、そう思っている自分は脳天気なのかもしれないと思い、そっとしまっていたものです。

根拠のない自信を、根拠なく人に伝えることはできないので、いろいろ学んだり、いろいろなことをやっているのは、根拠なき自信の根拠を他者に説明できるようになりたいし、それをもって何か役に立つようになりたかったということなのです、たぶん。

具体的には、311の後に人々がこれからの生き方を考え、悩み決めていく時に、「自分が思うように生きればいいよ!」と寄り添える存在でありたかったのです。

私たちも悩みましたが「自分たちがどうしたいか」で決めました。放射能や原発問題がある中で、他者にも「自分がいいようにすればいいよ!」といっていいのかどうかに迷いがありました。セラピストとして震災後、癒しの場に関わることはできましたが、それだけでは自分は納得がいかなかったのです。

結局、人間のこと、魂的なことをもっと学ばないといけないと思い、出会ったのがエソテリックヒーリングで、その延長でラージャヨガを今、学んでいるわけです。

はたと気づけば、今であれば「自分の魂が決めることだから、自分の意志で決めればいい」と言えるし、根拠についても、あの時よりは話せるようになっている自分がいます。

絶望しないこと
普遍的なビジョンに沿った生き方を考え続けること

魂には時間の感覚は無いので、今世で達成できなくても、絶望はしないのです。いつかは宇宙のビジョンと一体化することも知っているので、今世のパーソナリティの自分が絶望しようが、それは知ったことではないのです。

脳天気かも、と思って、そっとしまっていたことが実は自分の魂的な質につながることだったのではないかと気づきました。そして「そこに戻ればいい」ということで、瞑想の中でもっとその感覚を育てていきたいと思いました。

この記事も、自分の中で、その質感を明確に感じるために書いています。

ラージャヨガは真我を本当の自分であると認識し、真我から見て、働くことをめざしていますが、自分の魂(真我)の感覚の一端をよりはっきりとつかめた感じがしています。

思い返すと、これまでも、いろいろなことを通して、魂の発掘作業の練習のようなことをしてきたことに気づきました。人の取材の仕事をやっていた時も、それに近いことをしていたし、アロマセラピスト業ももちろんそれに直結する仕事でした。

これからはより自覚的に、他者の魂の発掘作業にも役に立てるよう、精進したいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?