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「観られるもの」は「観るもの」に、経験・喜び・解放を与える


春の気配のする日に、雪の上に出てはしゃぐ猫たちをみて、先日のラージャヨガクラスで先生が言ってた言葉を思い出した。

「観られるもの」とは肉体(感情や低位の思考も含む)で「観るもの」とは真我・魂のこと。つまり、私たちの肉体などは魂に経験、喜び、解放に至る道をたどるための道具だということ。道具が自分であると同一化していることがいかに多いか。

すると、その道具を敵視し、スピリチュアルなものを重視するような反動も起きうるわけですが、にゃんずを見ていると、道具を通して経験と喜びを感じていることがよくわかる。

特に、生後半年のあおちゃんは、外に出るのも初めて、雪も初めて、雪から出ている低木にすりすりしていたけど、生えている樹に触ることも初めてなんだと思った。

はじめてのものに触れ、それに喜んでいる感じが伝わってくる。にゃん生2年目のうさぴょんや、12年目のじいやは、春っぽくなって外を歩くのが楽しくなってきたことを表現する。それぞれの方法で。

彼らの経験と喜びを、ともに味わう。春が来て、また冬が来る。それらがうつろいゆくように、喜びもうつろいゆく。喜びも悲しみもうつろいゆくもの。

変化すること、めぐることは普遍であり、その中でともに生きていることを知るならば、「観るもの」が「観られるもの」から解放されるときに、執着することなく、小さな解放をも祝えるのかもしれない。その時、「観るもの」である魂は、「観られるもの」であり魂の道具である形態を、感謝をともに手放す。

(*動物は群魂なので厳密にいえば、個別の魂はないと言われているけれど、飼い猫など人間に近い動物で意識が進化してくると、若干分化してるんじゃないかと思うが)。



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