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世界の完璧さ

土間で乾燥させていたジャガイモとニンニクを保存用に箱詰めした。ニンニクの茎はハサミで切って、雑草コンポストに。

そんなことをやりながら、裏磐梯に引っ越してきた当時は、このゴミの出ない循環する美しさに、いちいち感動していたことを思い出した。

ただそれだけの満たされる時間。
それが暮らしの随所にあった。

私はたぶん3.11後、そのいくつかを手放した。そしてどう生きべきなのかを考えてきたけれど、大事な事は人間社会に何が起きようが、どれぐらい年月が経とうが、何も変わらないことを理解した。

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そういえば、同じ感覚をどこかで味わったことがある、ということをあとから思い出した。

それは、飼い猫のわさびが緑内障になって、そのヒーリングをしている時だった。その時に、何か大きな存在が傍らにいるように感じたことがある。それも、何とも言えない満たされた感覚、世界の完璧さを感じる感覚であり、それが何なのかよくわからなかった。

結局、わさびはしばらくしてから家出をした。
その時は、とても辛い感情があると同時に、自分で選んだのだろうという潔さに対する畏敬の念のようなものを感じた。
(それについての記事・・・永遠の家出


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人は自然界の生成と衰微に完璧に同調できた時に、至福を感じるのかもしれない。

おそらくそれは、体験してみないとわからず、体験しても、あまりにあっけなすぎて、ありがたくも思えないのかもしれない。

目の前にあるのには、なかなか気づかない。
私たちが探しているものはそういうものかもしれない。

植物は芽が出て成長し夏にピークを迎えた後、果実を実らせ徐々に物質界から撤退していく。その、生成と衰微の様相は、すなわち生命界の摂理である。

動物も人間も物質界の生命は有限である。顕現したり撤退したりを繰り返しているが、そのリズムを引き起こす主体である魂または霊は永遠のものである。

ルドルフ・シュタイナーは、自然界のこの二つの様相についてこう言っている。
「生成、繁栄、開花の過程に繰り返して注意力を向ける人は、日の出を仰ぐときの感情にやや似たような何かを感取するであろう。そして衰微、死滅の家庭からは、ゆっくりと月が視界に昇ってくる時に感じるのにやや類似した体験が生じるであろう」
「この二つの体験が作り出す感情の作用は、それがふさわしいしかたで育成していくなら、この上なく重要な霊的作用にまで変化する」

この体験を繰り返し、生命が刻むリズムに完全に共鳴できた時に何かが変化するのだろう。

物質界から生命が撤退していく時には、月の光を見て太陽の光を感じるように、物質(月)に太陽(スピリット)の光が反射していたことを認識し、永遠なるものを知る。

植物のスピリットは実や種を残し去っていき、季節が廻れば再び戻ってくる。動物や人間のスピリットも目には見えない実や種を残し去っていく。そして、物質界に残っている自分は、その種をうけとる。

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