「無限」


 小学生の頃、高熱を出してから、僕は「無限」と繋がるようになった。

 早めの厨二病じゃあないかと思われても不思議はないが、その事象は確かに僕の脳内で巻き起こっていた。


 その「無限」がどのようなものかと説明すると、まず頭がぼんやりして、クラクラする。そして、脳内に白黒の格子が波状に広がり、これぞ四次元空間だという雰囲気の空間が広がる。ドラえもんのタイムマシンのワープロードのような。
 目を開けると実際の部屋の天井などは見えるのだが、その壁はあまりに遠く、とてもこの手では触れられない場所にあるかのような感覚に陥る。たぶんそれは宇宙と同じもので、どこまでも遥か遠く、際限なく広がり続け、果てのない空間。


 小学生の小僧にとって、この「無限」の体感は、あまりに恐ろしく、とても正気でいられるものではなかった。布団に包まって時間をやり過ごしたり、実際に手を伸ばして壁を触ってみたりして、自発的に広がる架空から意図的に現実を認識することで、どうにかやり過ごしていた。


 その後も、体調を崩すと「無限」と繋がることを繰り返すのだが、不思議なことに、気づけば慣れていた。「お、きたな、無限」という具合に、むしろ楽しむ時でさえあった。


 そんな経験を何度も重ねる中で、いつかははっきりとは覚えていないが、一つ確信を得た。


 この「無限」「死」だと。



 僕の死に対する捉え方は一貫して「凪」だ。生命が死した後、物質やエネルギー体が残るにしろ残らないにしろ、その生命であった痕跡には凪の状態しかなく、それ自体には何も起こらないし、何も起こさない。そして肝心なのが、その凪はおそらく無限に続く。僕は、凪の状態が無限に続くこと、それが死だと捉えている。


 中学生くらいからだろうか、割と「死にたい」と思うようになっていたと思う。それは満たされていないからではなく、満ち足りていたから。スチューデントアパシー(学生無気力症候群)という言葉もあるように、まさしくそれだった。満ち足りた生活は向上心の低下、生命力の低下を招く。

 

 大人になってから、気が向くと瞑想をするようになった。すると、良い瞑想ができた時には「無限」と繋がれることを知った。それも、とても心地よい状態で、だ。この「無限」「生」のターンで獲得できたことに対して、全能感に近いものを感じることさえある。


 「無限」との接続、死生観、死亡願望、などが相まってか、割と「死」に対して楽観的に考えられているように感じる。それは死後の世界を擬似的に体感していることや、今この「生」の時でさえ、てきるだけ凪でいたいと願っているので、「死」に対する憧れがあるからだと思う。


 とは言っても痛いのは嫌なので死ねと言われても死なないし、病んでると言われても、そうですねと言い返すしかない。
 これが僕の個性だし、なんだかんだこの「生」でやることはまだありそうだし。


 二日前に高熱を出したのだが、「無限」とは繋がらなかった。旧友に会いに行ったら留守だったような感覚だ。

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