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暗い森の少女 第二章 ⑥ 慟哭の森

慟哭の森


村の奥には、普段大人も近づかない森があった。
常緑樹に深く隠され、夏でも涼しいその場所にはため池がある。
村にはいくつかため池があったが、その場所は田畑から離れていて今は利用されておらず、草刈りなど整備がされていなかった。
入り口もすでに雑草で覆われて、その奥にため池があることなど分からない。
「面白い場所を見つけたんだ」
そんな風に花衣を誘ったのは瀬尾だった。
ゴールデンウィークの瀬尾の言葉が、骨が刺さったように喉の奥で痛んで、花衣は自然と瀬尾家から足が遠のいていた。
どうやら、夏木の子供も入院が必要なほどの怪我だったらしく休みを貰うし、母親もしばらく実家に帰省しているので、昔、瀬尾家で雇っていたという年配の女性が泊まり込みで瀬尾の世話をしていたが、この女性は花衣のことをよく思っていないようだ。
花衣の生まれや育ちではなく、瀬尾家の跡取りが女の子と遊んでいることを、
「恥ずかしい」
と感じているようである。
瀬尾も児童会で書記の仕事もあるし、5年生からはクラブ活動も加わった。
分校のように小さな学校なので、運動クラブは野球部だけ、文系クラブは調理部だけで、基本的に男子は野球部、女子は調理部に入る。
ごくまれに、野球部を希望する女子、調理部を希望する男子もいたが、瀬尾は野球部を選ぶ、花衣は調理部に入った。
週2回の活動だったが、座学で終わってしまう調理部と違い、日が長くなってから野球部は遅くまでの練習があるので、一緒に下校することも減っていたのだ。
梅雨入り宣言はあったが、それを裏切るような天気が続いていた土曜日、授業が終わって帰ろうとしていた花衣を瀬尾が呼び止める。
「ねえ、今日の昼から遊ばない?」
屈託ない笑顔を久しぶりに目の当たりにして、花衣は頬が赤くなるのを感じた。
「でも……」
瀬尾家に行くことをためらっていると、
「今日は違うところで遊ぼう」
囁くような声は、なにか企んでいるような響きがある。
もじもじしているうちに、約束してしまった形になってしまい、花衣たちは一度帰宅してから、普段は行かない山の近くの空き地で待ち合わせた。
「遊園地」と呼ばれているが遊具はなにもない、墓地の前の空き地は近所の子供たちが集まっているが、田んぼも畑もない、植わりっぱなしで何年も放置されている夏みかんの木のある猫の額ほどの空き地まで来る子供はいない。
ここはもう村の外れであり、花衣にとっては境界線にも感じる場所だ。
(この村から、外へ)
叔父たちや、花衣をいじめる子供から逃げるには、この村を出てしまうことしかないことに気がついてた。
葛木の本家でも、中学生になるまでに花衣を引き取りたいという祖母に何度も打診があったが、なぜか母が首を縦にふらない。
いつも花衣のことなど無関心であり、家にいるときですら話しかけてくる母の思惑がわからなかった。
だが、それは祖母には都合がいいようであり、本家から送られてくる養育費を下の叔父に融通している。
(もう嫌だ)
花衣は雲ひとつない空の下、隣に瀬尾がいることも忘れて強く思った。
(もう、おばあちゃんもおじさんも、なにもかも嫌)
だからといって、葛木本家で暮らすことにも強い不安がある。
当主夫妻も、谷に住む一族のひとたちも、みな花衣に優しいが、あの谷にはなにか恐ろしい隠し事がある気がしていた。
どうしてあんな住みにくい土地にひっそりと暮らしているんだろう。
純血を尊び、一族の間での近親婚が繰り返されていると薄々感じていたが、あの谷には健常者しかいない。
血が近しいものが結婚し、それを繰り返していくとどうなるのか、花衣は母の本棚にあった「ハプスブルク家の歴史」と言う本で知って、何度も読み返していた。
今の当主は、曾祖父の父親であるひとが谷の人間ではない女性との間にもうけた子供だったのだから、血は薄まっている。
しかし、当主婦人は谷の生まれで、その両親も谷出身だ。
そもそも、あの谷に住んでいるのは、みな大人ばかりだ。しかも老人ばかりと言っていい。
当主夫妻の子供は大学を出てから谷に帰らないようで、他の一族の跡取りである子供も、谷には住んでいない。
どういう収入源があるかは知らないが、裕福に暮らしているように見える谷のひとびとを、外に出た子供は仕送りでもして支えているのだろうか?
(花衣には婿を取る)
昔誰かが言っていた言葉も引っかかる。
谷の老人たちの子供は、もう成人していて母や叔父たちよりきっと年上だろう。
その子供たちが、谷の外で結婚して子供をもうけていたとしても、純血にこだわる一族がその子供を葛木家を継ぐはずの花衣にあてがうだろうか。
(誰と結婚させられるの)
谷に行くたび、一族のひとに可愛がられるたび、花衣は不安になっていく。
そして、あの奥座敷。
何回も忍び込んだあの和室に入る度、花衣の中にいる20代の女の影は濃くなっていく。
まるであの部屋から生気でも得ているのか。生き生きとし、この頃は女の記憶さえたどれるような気にさえなる。
あの女は、葛木家の血筋の者であり、花衣に乗りうつっているとでもいうのだろうか。
(……あのひとは葛木の家を憎んでいる)
そんなことを思った。
「じゃあ、行こうか」
瀬尾は、花衣が時々深く自分の思いに沈んでしまうことに慣れ、花衣の意識が浮上する時を見計らって声をかけてくるようになっていた。
「どこに?」
この先は、歩いても村と別の村の境界線の森が続いているだけだ。
「あの森の中へ」
びっくりして花衣は言葉を失った。
そこは長く誰も立ち入らないと聞いていた。
花衣の曾祖父がこの村にやってくるより前に、やはりよそ者の女が住みついたことがあったそうだが、いじめ抜かれてあの森の中で首を吊ったと噂があったのだ。
夜になると、小さな金色の火の玉がゆらゆら木々の間に漂うのだ、そう子供たちも夏の怪談話として聞いたことがある。
「あそこは入っちゃ駄目だって」
「うん」
おかしそうに笑いながら瀬尾は続けた。
「でも僕、何回かあの森にいったことがあるんだ」
またしても花衣は驚いてしまう。
野球をはじめてから少し日焼けはしたものの、まだ幼さの残る少年にそんな勇気があるとは思ってもみなかったからだ。
瀬尾は慣れた足取りで、背の高い雑草に蔦が巻き付き、行く手を阻んでいるとしか思えない森の中に入っていってしまう。
「瀬尾くん!」
思わず大きな声で呼び止めたが、花衣の声など聞こえないように進んでく瀬尾のことが心配で、必死にあとに続いた。
高い木々に日差しは遮られ、視界は緑色に変わっていく。
ふたりの足音と、花衣の弾んだ息しか聞こえない。
鳥さえさえずらない森の奥までいくと、そこには大きな池があった。
しかし、普通の池とは違う。
どこにも川と繋がっていないし、水が湧いているようにも思えない。
濁ったこけ色をした水は、死んでいるようだ。
「ため池だよ。古い言葉だとつつみかな?」
「ああ」
花衣はうなずいた。
農業用、防災用と村のあちこちにため池はあったが、年寄りはみな「つつみ」と呼んだ。
そして
「決してつつみには近づくな」
と。
コンクリートで作ったプールのようなため池もあったが、だいたいすり鉢状に掘ったむき出しの土の中に雨水がためられている。
一度落ちたら、蟻地獄のように這い上がることはできない。
大人でも助けることは不可能だから、絶対に近寄ってはいけないと、幼い頃から何度も言い聞かされていた花衣は、本能的につつみに対する恐れがある。
だが、6歳まで違う土地で育った瀬尾にそんな恐怖心はないようだ。
瀬尾は、倒れたまま朽ちてベンチのように見える木に腰掛けた。
「はじめて来たのは7歳のときかな」
瀬尾は遠い目をして言う。
それは明らかにいつもの瀬尾ではなかった。
いつも明るく正義感が強い人気者の表情ではない。
笑みが消えた横顔に、ふと、自分の中に住む10代の少年の面影が見える。
あの、怒りを込めてそれを隠した無感情な目。
そういえば、少し顔立ちが似ている。
高校生くらいに見えるその少年が、花衣の胸の奥から、そっと瀬尾をのぞいている。
表には出てこないが、はっきりとその存在を感じた。
「ねえ」
瀬尾はひとりごとのようにつぶやく。
つつみの水が木々の隙間からもれてきた光を反射して、花衣の目を打った。
「信じていた世界が全部嘘だったら、葛木さんはどうする?」
いつか瀬尾から聞いたことがある台詞だった。
じっと瀬尾を見つめる。
花衣の中の少年も瀬尾を見ている。
「僕はね」
そこにはもう、花衣の知っている瀬尾はいない。
それはまるで花衣自身を男の子にしたように、鬱屈を隠した、暗い影を背負った姿である。
「最初は僕が消えてしまえばいいと思ったんだ。でもね」
瀬尾の声は低く、水に吸い込まれていくようだ。
「僕を裏切ったひとたちを、このつつみに沈めちゃえばいいんだって思うんだよ、最近」
ゆっくりと振り返る瀬尾は、言葉とは裏腹に優しい笑みを浮かべている。
「きっと、葛木さんにもいるんでしょう? 消えてなくなればいいひとが」
何も答えられない花衣の呼吸だけが森に響く。
「僕が、消してあげてもいいんだよ」
目の前の少年は、瀬尾の顔を持ちながら、瀬尾ではない毒を含んだ微笑を浮かべて花衣に手を差し伸べた。

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