みんな何かを信じてる。でもその何かが変わる時、現実も変わって見える話し

信じている事やモノは

自分の状態でいくらでも変わってしまう。

上の記事で書いたのはそうゆうことでした。


私が今まで信じてきたものは

それは言葉にすると疑いや嘘だからです。

(この表現が正しいかどうかは分かりませんが)


信じると言葉にしてしまうと

何か特別なものを思い浮かべてしまいそうです。

特に目には見えないもの全般。

例えば、

占いとか、宗教とか、神様とか、幽霊とか、UFOとか、宇宙人とか

とか…。

私はこのnoteによく宇宙人さんの話しを書いてますが

絶賛信じてます!と言い切れない自分もいて、でも信じてる自分もいます。

白黒つけずに今のその私でやってます。

疑う私を受け入れながら、好奇心と面白さがそれ以上にあるからやってます。

そしてそこでの経験がまた信頼に繋がります。

誰かと交わすコミュニケーション

話す聴くという耳からの音を感じて、その場所に行くという手足を使って体験する。

経験は信じることを許可します。

そして経験は信じないことも許可します。

一つの出来事から信じると信じないが生まれます。

人の数だけ。


私の過去は外側に不信ばかりがありました。

だから、恐ればかりを見てました。

それを信じてしまったら、自分は…という他者の目に怯えてました。

見えないものを信じることについての恐れは

他人の目に怯えてるから

私の中の恐れは、それに尽きる気がしています。

妄信した信者…

そうゆうのを恐れてます。

でもその恐れは外側にはなく

今私が作った妄想で、それを信じてる私が

恐れをそのように量産してるという仕組みがどうやら

現実の作り方のようです。

それは恐れだけではなくて、不安も緊張も

きっかけは私の内側にあって

外側にそれを見るのだと思うようになりました。

だから自分が信じてるものが、日々影響を与えてる。

私の中にいっぱい入ってるものが

そのまま外に現れる。


画像1


これは篠山紀信さんの撮ったJohnとYokoの有名な写真ですが

今までずっと違和感でした。

この写真を素晴らしい写真だと認めてる人が沢山いて、

大勢の人と同じように認めることの出来ない私は

どこかでダメな私としてこの写真を見てたからじゃないか、と今は思っています。

劣等感の私から映し出されたJohnとYokoの写真は

愛の表現が目の前にあるその事よりも、

どうせプロモーションや広告だと思っていました。

もちろん撮影のきっかけは、そうだったとは思います。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.gqjapan.jp/culture/bma/20150305/double-fantasy%3famp

ただ本当にそれだけのために

一緒にいる2人ではないとも、どこかで私は

この写真から感じていた部分もあって

だから違和感がありました。

劣等感と愛と、そうゆう2つが私の中に一緒にあったこと。

自分の中の葛藤と不一致でこの写真を見たときは生きてました。

そこに愛があると言えない私がいて、そこに冷めた目でどうせと言ってる方が、大人だと思っている節があって

愛だと言ってしまう恥ずかしさがありました。

そして無表情に見える人を私は苦手にしてました。

Yokoは私にとってはその代名詞のような人でした。

だからそこに愛はないと思ってました。嘘だと思ってました。

その人の一瞬の表情に、愛はないと信じてました。

それはYokoだけじゃなく、私が感じる無表情を持つ人全てに。


でも、本当はそうゆう表面ではない奥にあるものを

私は信じるようになってきました。

本当は手に取れず、残らず、見えず

だから信じられないとしてきたその場所へ

私は進んでいき、見ようとし、関わろうとし、心を開こうとする今があるから。

人からの目よりも大切にしたいものが本当はあって

私はそれを信じたいと

ずっと思ってきたんじゃないかと。

もう信じたいものを素直に信じればいい。

大人になんてならなくていい。

背伸びなんてしなくていい。

そう思えたタイミングで

私はまたこの写真を見ることになったと思っています。

目に見えるその写真に写された

見えない想いに私が反応できたのは

きっと2人の愛のおかげじゃないかと

今は思います。

宇宙人さんのおかげ様

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