「許す」のは難しくない

「許す」という行為。
たしかに美しい行いだと思う。
たしかに高潔な精神だと思う。
頭ではそれがわかる。

だが実際のところ、あなたは”憎いアイツ”を許せるだろうか?
あの許しがたい恥辱をあなたに与えたアイツを。
耐え難い苦痛をあなたに与えたアイツを。
自分の最も大切なモノを奪ったアイツを。

もし「許せる」と言うなら、もうこの先、話を聞く必要はないと思う。
しかし、ほとんどの人は「許せない」を選択したはず。
私がこんな話をし始めたせいで、昔の出来事を思い出し、まさに今ここで
猛烈な憎悪が巻き起こり、はらわた煮えくり返る思いをしている人もいるかもしれない。

そんな人こそ、話を最後まで聞いてほしい。

大抵の人はいつまでも根に持ち、忘れることができないでいる過去があると思う。
酒浸りになったり、性に依存したり、薬物に手を出したりするが、それらはすべて一時しのぎで根本的な解決にはならない。
身近な人は「許す」ことや「忘れる」ことを提案してくるが、それができれば苦労はない。

私に言わせれば、まず、「許そう」とすることが間違っている。
「忘れよう」とすることも同じである。
本心は許せないのに、許そうとする行為は自分に嘘をつくことになる。
許せないのに、許そうとすれば、そこで葛藤が起こり、さらに苦痛が増えるのがオチだ。
”許せない”と”許す”はベクトルが真逆を向いてるから当然そうなる。

では憎しみを抱き続けるのはどうか?
これもすこぶる、精神衛生上よくない。
それどころか肉体の体調までおかしくなりかねない。
憎しみや怒りを抱いたとき、一番それに”あてられる”のは誰か?
それは”憎きアイツ”ではない。いくらかは憎しみの念も飛んでいくだろうが・・・。

一番被害を被るのはあなた自身だ。

あなたが抱く怒りそのものが、あなた自身を蝕んでいく。
憎悪の嵐がうずまいている場所、それは”あなたの中”で起きる。
だから一番の被害者はあなたである。

ゆえに、他人を許せないことが、さらに自分を陥れていくことになる。

「んなことはわかってる、大きなお世話だ!」
と思ったのはあなただけではない。

私もかつて、そう思うタイプの人間だった。
私は憎んで憎んで憎しみ抜く、というタイプだったので、必ず報復はした。
合法的に報復する手段は私にはいくらもあった。

私は学生時代、机に”死ね”などと書かれたこともあったりしたが
そんなときでも「言ってろゴミども」と軽く流していた。
やろうと思えば、いつでも報復はできるので、これくらいのことは痛くも痒くもなかった。
だが、本気でムカついたときは、例の合法的手段を全力で行っていた。
(それが何なのかは察してください)

世間では「許す」という行為は、多大な苦しみを経てのみ、
可能であるかのような考えが、まかり通っている。
だが、そんなことは鵜呑みにする必要はない。
人を許すために苦しみが必要なんてことがあるだろうか?
ただでさえ、許せないほど苦しんでいる人が、さらに許すために苦しまなければならない、なんてことが?

つらい修行を経て許せるようになることが、もしかしたらあるかもしれない。
それはその修行がそれなりの効力を持っているからだろう。
だが、あなたはそんな苦行をする必要はない。
そもそも、そんな苦行を行う時間は現代人にはないし、ましてや出家の必要もない。

-好きなの?ねぇ?・・・アイツのことが好きなの?-

と、私は皮肉を言いたくなる。
だって、あなたは憎きアイツの顔が浮かんだら、それを掴むでしょ?
いつまでも掴んで離さないまま、懐き(いだき)続けるんでしょ?
それは、あなたがアイツのことが好きだからじゃないの?
好きじゃなかったら、どうして掴み続けるんだい・・・?

そうなのだ。
前もどこかで言ったが「好きも嫌いも同じ、こだわり」であるということ。
こだわっているから掴むのだ。

-”許す”とは”流す”ことである-

”許す”とは特定の誰かを許すことではない。
例の”憎きアイツ”を許すことではない。
許せないことは許せないままでいい。
あなたが殺したいと思う相手も許す必要などない。
まず、そのままでいい

”あなたの中で起きていること”を許すのだ。

そして”許す”ということは思考を通過させること、つまり、流すことである。
あなたの中で湧き起こるあらゆる現象を流す、ことが”許す”ことである。
その中には、あなたが大嫌いなアイツの顔も含まれる。

そのとき、あなたの中で葛藤が起きなくなる。
ただ、思考は一方向へ流れるだけなので対立も葛藤も起きることはない。
あなたはただ、その流れが滞らないように、注意を払っているだけでいい。
難しいことはない。
すばらしくシンプルだ。

その流れを強めたり、速めたりすることができればなお良い。
停滞時間が減れば、それだけ掴むのも困難になる。
流れが速い川では、流れてくるものを掴みにくい、ということである。
そして視界から消えれば、それは忘却の彼方に消え去る。
再び現れることもあるが、同じことをすればいいだけ。

この”流す”という考えのいいところは、心理的な負荷がほとんどないことだ。”許す”という行為は心理的にキツイはず。
そもそもなにゆえに、あなたを不当に傷つけた薄汚いドブネズミを許さなきゃならんのか?
そう思ってしまうだろう。
だが、流すだとどうか?
頭の中の敵イメージを流すだけなので、何も負荷がかからない。

意識をこういうことができる状態に移行させるのが、このブログで提供しているワークの目的である。
どの記事でも結局最後、私はワークをやってみることをすすめる羽目になる。

私事で恐縮だが、
私が少し前に合法的報復がどうのという話をしたと思う。
実は私はかつて、本気で殺害したいクソ野郎が三桁を超える、という状況にあった。100人と10数人のアホを一人残らず地獄へ落とすことを天に誓っていた。
だから、当時は大変だった(笑)

そんな私が今現在、平和な日常を過ごせているのは、一重にワークのおかげである。
一時は、悪魔に魂を売り、毎日が夜叉のような気概を負って生きていたあの頃が、今思えばウソのようである。
当時も今も、私ほど人を合法的に死に至らしめる力を欲した人間は、この地上の人々の中でも私をおいて他にない、とさえ思っている。

ところが今は、香箱座りの猫のように心が静かである。

現在の私 「イラストの里(https://poromi-free.net)」

私の提供するワークはあまりにも単純で簡単なため、大して効果が期待できないように思えるかもしれない。
だが、それは複雑さを求める現代人の悪癖である。
何か大きな苦労や努力、難解な問いを追求し続けた先に、真の幸福や平和があるかのように現代人は思いがちだ。
が、それらは幻想である。

ワークがしっかり機能すれば、いずれ、怒りや憎しみが生じる原因そのものを流すことができるようになる。
これはどういうことかと言うと、あなたに怒りや憎しみそのものが生じなくなる、ということである。
怒りに駆られる以前に、その原因そのものを流してしまうのだから、怒りが生じるはずもない。

はじめはすぐに怒りに駆られるだろう。
だが、ワークを続けていれば、自然に流すことができるようになる。
川を流れてくるゴミを眺めるのと同じくらい簡単なことだと気づくはず。
そうなれば、もう怒りや憎しみなどのネガティブな感情とはお別れだ。

日々のワークが、その状態に意識が移行することを可能にする。

詳細は「ワーク」を参照されたい。

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