自分以外のものになろうとすると・・・【毒舌注意!】

地球に転生しない条件を模索すると、結局、”執着を残さない”ことが一番の
近道であるとことに行き着く。
そのためには「自分の人生をちゃんと生きる」ことが最良である。

まず、執着を断つ、ことと人生をちゃんと生きる、ことは同義である。
ただし、ちゃんと生きる、ということは、エゴの欲望を追求することではない。あなた自身の持って生まれた本質的な願望を追求することである。
この本質的な願望、いわゆる「魂の衝動」と後天的に「エゴに芽生えた欲望」は質が全く違う。この後天的なエゴの欲望を求めることは、エネルギーと時間の無駄でしかない。

一番の理由はエゴというものの器が小さいからである。
エゴは、肉体上のほんの一部を担うだけで、そのため、欲望を叶えるのに時間と労力がかなりかかる。

本質は全体であり、ゆえに自分のすべてを注げるため、願望が叶うまでの時間が早い。また、本質的な「魂の衝動」は、人が生まれてきた理由に直結している。なのでまず、叶わないということがない。
ある目的のために生まれてきたのに、それが叶わない、なんてことがあるだろうか?

サラリーマンになって、ごく普通の幸せな家庭を築きたい、という目的で生まれてきた者がいたとする。魂は、そのために最適な肉体や場所を選択する。両親は生粋の絵に描いたようなサラリーマンだし、聞けば、祖父母もそんな感じだったらしい。隔世遺伝的にも準備は万端。

だが、せっかく準備は整ったのに、サラリーマンとはかけ離れた職種を望んだら、それは叶うものも叶わなくなるのではないだろうか?
はじめから「クリアできないゲーム」だとわかっていたら、誰もそのゲームを購入して遊びたい、とは思わないだろう。
人間に生まれてくる、ということは、クソゲーを定価で購入するよりも
ずっとリスクが高い。

願望が叶わない、もしくは先が見えないとしたら、それは「後天的に芽生えたエゴの欲望」である。本質とは、だいぶかけ離れていることを自覚しよう。グルジェフはエゴと本質のベクトルは大抵、真逆を向いている、と述べる。私も経験上、そう思う。

エゴの欲望の中で、一番多そうなのは”自分以外の何者かになろうとする”というもの。

若いときは、いろいろな人に憧れたりするものだが、誰かのようになろうとする行為は自分自身を完全に無視した行為であり、自己に対する裏切りとも言える。なぜ、自分のオリジナルに目を向けようとしないのか?
あなたの本質は、あなたが振り向いてくれるのを待ち続けているが、
いつ、人は自分の中心へ目を向けるのだろう?

エゴと本質

私の頭の中には、「世の中の薄っぺらい言葉辞典」というものがある。
その中に、こういう文言がある。

「人間は何にでもなれる。可能性は無限である」
とか、
「みんな同じだ」
とか・・・。

確かに、魂自体は無限の存在と言える。だから可能性も無限だろう。
だが、肉体が有限である以上、この発言は有罪に近い。
この次元では魂の表現は必ず、”有限である肉体”を通したものになるので、
”無限の可能性”には無理がある。

また”肉体は地球というオープンワールドを体験する乗り物”という定義を耳にするが、そうだとしても、この乗り物には限界がある。

車で例えるとわかりやすい。
設定された以上の性能はどうやっても出ない。
あなたの肉体はスポーツカーかもしれないし、ランドクルーザーかもしれないし、軽トラかもしれない。
軽トラなのに、スピードレースに出たりすれば、結果は目に見えている。
あなたの魂は、必要からその車種を選んだ、ということに気づけば、何をしたらいいのかは自ずと分かる。

それと、思考が形や枠をつくるわけだから、無限の可能性と言いたいなら
やはり、思考、つまりエゴを否定する必要があるだろう。

とにかく、こういう言葉が人々を惑わせ、無駄な時間とエネルギーを奪い取る。人々が何かを求めたり、何かを探したりすることで、活発に活動してくれれば、経済は循環するし、利益もあがる。
社会的には好都合だが、個人からすれば徒労に終わるだけ。
どこかの誰かが儲かるだけだ。
結局、人は遠回りした挙げ句にこう思う。
「私は私自身でしかないのだ・・・」と。
ならば、はじめから自分自身に焦点を合わせていればすむ話だ。

ここで、一部の人達がよく使う言葉に「遠回りは必要だった説」というのがある。では、若い頃から頭角を表す人はどうなのか?
子供の頃からその道一本で大人になっても活躍している人は?
彼らは遠回りなどしていない。
まっすぐ、本質的な人生を生きている。

-自分のオリジナル-

実は、オリジナルは確立する必要がない。
もともと人はオリジナルだから。
あなたは、両親はもちろん、長い一族の歴史が育んだ結晶である。
さらに、生まれた時間や場所、姿かたち、身長体重、感受性、性格、嗜好性、固有の経験や体験、そこから生まれる思想や価値観など、どれ一つも他人と同じところがない。
なのに、なぜ、自分以外の者に、わざわざ好んでなろうとするのか?
自分自身を裏切り、どうして、愚かな集団や群衆のレベルに、
自分を引き下げようとするのか?
または、どこぞのアイドルやら俳優スターに、自分を引き上げようとするのか?

オリジナルになろうなんてことはする必要がなく、ただたんに、本質へ戻ればいいだけの話。何かを足していって達成するものではなく、「自分ではないもの」を捨てていくことで可能になる。

加算ではなく、減算。

それは、優れた彫刻師が、木片から像を削り出していく作業に似ている。

魂を削り出せ

魂は、執着というガラクタをごってり身につけてくる。
それらを削り落とすには、ただただ、自分本来の人生を全うするだけですむ。そうやって魂は磨かれていく。

だから、エゴの欲望に振り回され、紆余曲折し、迷いに迷ったあげく、苦労ばかりで思うような結果は出ず、とうとう、くたびれてしまい、気がつけば髪の毛は白髪だらけになっていた、なんてことにならないようにしたい。

➖エゴイストの成れの果て➖

「エゴの欲望」はそもそも、追求するに値しないものである。
やるだけ無駄、時間とエネルギーの浪費でしかない。
「エゴイスト」とは、強欲とか、己の欲のためなら人も殺す、とかそういう意味ではない。
欲望の大小ではない。
エゴイストというのは、”思考に同化した意識”を指す。
私利私欲の人間を指すのではない。

「自分でないもの(主に思考)を自分だと取り違えている状態」が
エゴイストの定義である。
だから欲望は悪ではない。

「エゴ」は先にも述べたとおり、その容量がちっぽけだから
仮に欲望を満たすことができたとしても、その満足感はバカみたいに小さい。さらに当然だが、飢えが生じる周期も速い。

一度満足を体験すると、時間とともに「飢え」が生じる。
飢えれば、また満たせばいいのだが、エゴの容量が小さいため、飢えるまでの時間が短い。ねずみのような小動物が、頻繁に食べ続けないと死んでしまうのと同じだ。

満足感も少なく、またすぐ飢える。
だから結果的にエゴの欲望を追求すると”貪る”ことになる。
それが、資源の枯渇や汚染につながっていく。
地上に何十億人といるのだから、個々人に自覚がなくてもいずれそうなる。

また、中毒という危険もはらんでいる。
薬物摂取を例に挙げれば、すぐにその危険性がわかると思う。

はじめは効果がある。
が、すぐに耐性ができる。
薬物の量は増え、摂取期間はどんどん短縮されていき、効果も薄まっていく。そして、より強い薬に手を出せば、もう、立派な中毒患者の出来上がりだ。気がついたときには廃人寸前である。

このように、エゴの欲望を追求することは、不利益しかない。

自分勝手で、愚かで狭量なくせに、プライドだけは高く、暴力的でありながら、小さなことをいつまでも引きずり、そのくせすぐに調子に乗る。
喪黒にドーンされて破滅するような、しょうもない器。

気にしていることは、自分のことばかり。

コロナの時もそうだった。
毎日毎日、他の生き物殺して食ってるくせに、いざ自分が死ぬかもしれないとなるとあの騒ぎよう。自分たち人間は殺されないとでも思っているのだろうか。
このように、死を過剰に恐れるのもエゴの特徴で、エゴがいかに生への執着が強いかがよくわかる。

そして散々騒いだ結果、物価が上がって生活にダメージを食らったのは騒ぎまくった当の国民たち。これにはメディアも元凶になってるが。
そして、一部の連中が儲けまくっただけだった。

-本質への回帰-

本質へ目を向け、自分の真の願望に向かって歩み始めれば、最速であらゆることが実現できる。なぜなら、「本質」はあなたの「全体とすべて」であるから。

私が推奨するのは、エゴの欲望を追求しない、という類のものではない。
そもそも欲望を抑える必要はない。
そうではなく、その権化である思考から離れることで、”エゴイストであること”そのものをやめる、ということ。つまり、間違った思い込みによる自分ではなく、本来の自己自身に戻る、というただそれだけのこと。

それは可能である。
そして決して難しくはない。
本質とエゴの欲望をどう見極めるのか?という問題も難題ではない。
ワークがきっと助けになるだろう。

ここで「エゴ」をより正確に定義しておこうと思う。

”エゴ=自我とは思考であり、厳密に言って実在していないものである”

つまり、多くの人が自分だと思っているものはすべて「自分」ではない。
思考がつくりあげた幻想である。
では、「自分」とは何か?
思考を放棄している状態のときが、真の「自分」である。
だから、定義ができない。
言葉もイメージも思考の領域でのみ、有効なものだから。

「自分」とは肉体ではないし、思考ではない。
そして、人が想像しうる、ありとあらゆるもの以外の何かだ。
なぜなら、想像できるものはすべて思考の産物だから。
したがって厳密にいえば、「エゴ」とはただの言葉、ともいえる。
実はこれが一番真実に近い。
言葉による定義、イメージは常に思考の領域にある。

デカルトの金言「我思う故に我あり」は、すばらしくシンプルで的を射ている。

デカルトおじさん

これに不満を示し、改良したのが、アメリカの文人ビアスだった。
「我思う、と我思うがゆえに、我ありと我思う」
彼によればこの文言は、
「いかなる哲学者もなしえなかった真実への接近」に成功したらしい。

ビアス

ならば私も負けじと言わせてもらうことにした。
「我思う、ゆえに我ありやなしや」
デカルトを皮肉ったビアスでさえ、これには舌を巻くはず。デカルトもあの世でニッコリである。

なんにせよ、思考から生まれた自分、つまり、エゴというものは存在しない。あくまで錯覚である。したがって、”自分ではないもの”なのだから、それにこだわることに意味はない。
もともと、そんなものは無いのだから。

このエゴというものは実に厄介で、複雑多岐にわたってこの世に君臨しているが、それというのも、人間がエゴに甘んじているからに他ならない。
世界のあらゆる場所に人間の手が加わっている以上、そこには必ずエゴが反映している。エゴが反映しているということは、思考が反映していることであり、それは分離を反映していると言える。

以上の見解に異論はあるかもしれないが、私は認めない。
なぜなら、エゴに居座るより、本質のほうがずっと楽に楽しく生きられるから。人は自分自身であるだけで、ほとんどが充足される。
だから無駄なことをしなくなる。

なぜ、人はあんな独りよがりな不幸ばかり運んでくるものに、こだわるのだろう?
バグワンは「人々は幸福であるよりも、不幸のほうが好きらしい」
と言ったが、これには同感するしかない。

バグワン

そりゃあ、メディアだってネガキャンしまくるわけだ。

ここまで、エゴを徹底的に否定してきたが、一部、やっかいな例外がある。

それは”自分”という感覚を得るために生まれてきた類の人たち。
こういう人々は、”自分という感覚”から生まれる孤独感、孤立、対立、統合などを体験するために地球に来てるので、どうにもならない。

おそらく、こういうエゴ否定の話とは接触しないように、生まれる前に設定しているか、無意識に、まったく関心を持たないようにしていると思う。
接触しても、決して耳を傾けることはないだろう。

途中で話を遮って反論をしたり、論点ずらしをしてくると思われる。そういう人たちは何を言っても無駄だ。社会はこう、みんなはこう、と言って架空の多数決を盾にしてくるだろう。

一体何が、それほどまでに”自分”というものに執着させるのだろうか?

こういうタイプは、一度、徹底的にエゴイストとして生き、懲りるまでやらないとわからないのかもしれない。

私のように(?)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?