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かみさまへ8

「記憶なんて本当にあいまいなものだね。」智弘が言う。

「何?急に」

「んー例えばさ、一年生の時の担任の寺本先生について 覚えてることって何?」

「そうだなぁ。なんか怖かったかなぁ。声が大きくて はきはきしていて。でも結構好きだったのかも。先生のおうちに遊びに言った記憶があるもん。」

「俺は 面倒見のいいおせっかいなおばちゃんだなって感じ。でもこれはきっと一年生の俺が感じたことではなく 今の俺が当時の先生を思い出して感じてることだと思う。」

「うん、一年生くらいじゃ おせっかいなんてきっとあまり分からないもんね。」

「そんな風に 俺たちは同じ時間を共有していたはずなのに覚えていることは違うだろ。記憶なんて自分の体験ごとに塗り変えられてしまうものなんじゃないかなって思って。

お節介なおばちゃんに出会ったから あぁ寺本先生もお節介だったなぁって思ったけど すぐ怒るおばちゃんに会ってたら先生のことを怖かったなぁって想い出したと思う。」

「なるほど そうかもね。」

記憶は曖昧。

思い出すのも嫌だった恥ずかしい出来事も、
誰かが笑い話にでもしていれば 
あぁ、人生のネタができたって喜ぶこともできるようになる日が来るだろう。
失敗した話も 感覚と笑いを添えて子どもに語ることができるなら
貴重な体験をしたと思えるだろう。

 あのコーヒーカップのことはどうだろうか。

 中学校からは別々の学校に通うことになったわたしとミキは それでも時々それぞれの部屋に泊まりあったりして 中学女子がするような好きな子の話とか、部活の話とか、先生の話、素敵な先輩の話にどきどきして 毎回空が白んでくるまで目をキラキラさせて話し込んだ。

ある時 ミキが

「今度の父の日に パパに内緒でこれをあげるんだ。」と言って見せてくれたのは 飲み口の薄い素敵なコーヒーカップだった。

「へー綺麗なカップだね。うん、おじさん喜んでくれそう。」

「そうでしょ。ちょっと高かったけどママと一緒に選んで半分ずつ出し合ったの。」

琥珀色のコーヒーがとても美味しく見えそうなコーヒーカップがまぶしくて どきどきした。

「わたしもお父さんにコーヒーカッププレゼントしようかな。」

「いいじゃん。おばさんと相談してみたら?」とミキが言った。

「うん、考えてみる。」

 お母さんにも内緒で お父さんにももちろん内緒で コーヒーカップを選んでプレゼントしたらどうだろう?二人ともびっくりするに違いないし きっと喜んでくれるだろう。
 想像したらワクワクしてきて いてもたってもいられなくなった私は ミキが帰るとすぐに貯金箱を開けお財布の中身を確認し 自転車に乗って

「ちょっと出かけてくるねー。」とお母さんに伝え 家を飛び出した。

 お父さんのびっくりする顔・喜ぶ顔が見たいという一心で コーヒー好きのおばさんに何度か連れてきてもらった珈琲豆のお店を目指す。

 入り口の横に自転車を止め 中学生が一人で大人のお店に入るという初めての体験も手伝って 緊張と精いっぱいの背伸びをして重いガラス扉を押した。

 カラカラというドアベルの音とともに、豆を焙煎している乾燥した土臭い独特の香りに包まれ、ぱちぱちとはぜる音の中 お店のご主人が振り返り「いらっしゃいませ。」と迎えてくれた。

 壁にはぼってりした味のある焼き物のカップや、薄くて瀟洒なヨーロッパ風のカップなどが並べられている。
 ガラス扉から射す西日に照らされて、どのカップもアンティークのような風合いを増して見えた。

 ミキが見せてくれたのは こんなのだったなぁ。げっ、これ3000円もするんだ。高いなぁ。などとぶつぶつ言いながらコーヒーカップを真剣に眺める落ち着いた店内に不釣り合いな中学生に嫌な顔一つせず声を掛けるでもなく コーヒー屋のご主人は優しく見ていてくれた。

 かなりの時間をかけて 信楽焼と書かれた少し渋めの風合いだが 丸くぷっくりとしていてかわいらしいものを選んだ。2番目に素敵だなと思ったものだったけど お財布の中のお金と貯金箱に貯めてあったお金を足してなんとか買える金額のものだった。

 ご主人に渡すと 「このカップで飲むコーヒーは美味しいぞ。」とにこやかに言って丁寧にラッピングしてくれた。

 お父さん喜んでくれるかな。驚くだろうなー。と想像しながらこぐ足取りは軽く 父の日が待ち遠しかった。

「ただいまー。」

「お帰り。どこ行ってきたの。」

「むふー。内緒。」

「あら、内緒なの。残念。」と大して残念そうじゃなくお母さんが言う。

「ねー。お母さん、今週の日曜日ごちそうとか作る?」

「えっなんで?」

「父の日だから。」

「あっそっか。すっかり忘れてた。そうだね、お父さんの好きなものを作ろう。」

「なんかうきうきするね。」

「そうだね、お父さんも忘れてるだろうからきっと喜ぶよ。」

 あぁ楽しみ。人をびっくりさせて喜ばせるのって大好き。さっき買ってきたカップを見つからないように部屋に持っていきながら 日曜日のお父さんを想像して笑ってしまった。ごちそうもお母さんと一緒にたくさん作ろう。

 日曜日の朝 早起きしてまだ誰も起きてきていないことを確認すると、部屋に隠しておいた包みをお父さんの座るところのテーブルに置いた。喜ぶ顔が待ちきれなかったのだ。

 いつもよりゆっくりお母さんが起きてきて あとからお父さんも
「おはよう、もとこ。今日はやけにはやいね。」と挨拶する。

「おっ なんだこれ?」とテーブルの上の包みに気付いたお父さんが声を出した。

「今日父の日でしょ。お父さんへのプレゼント。開けてみて。」
と心の中でわくわくと緊張しながらも 出来るだけそっけないふりをして答える。

「なんだろうかな。」「ん、けっこう重いものだな。」とか言いながら包みを開けてる。楽しみでどきどきする。

箱を開けて中をのぞいて テーブルの上に取り出す。

「あら、かわいいカップ。素敵じゃない。」とお母さんが言う。
うん、そうだよね、やっぱりかわいいよね。とにんまりした。

「おー。コーヒーカップか。なかなかいいな。」
そうでしょそうでしょ。うんうん。

「んー。だけど俺はコーヒーは好きじゃないし、お茶を飲むのも決まったコップがあるんだよなぁ。」と。

くらっと眩暈がして 後頭部に鈍い衝撃を受けた。

「あっそっか。そうだったよね。わたしなんか余計なことしちゃったね。」

あははと 笑顔を繕ってその場を後にするのが精いっぱいだった。

部屋に戻ると 涙があふれてきた。

 どうしてこうなったんだろう。冷静に考えればお父さんの性格上 欲しいと思ったもの以外はもらっても迷惑だという人だし、正直すぎて嘘の付けない性格だと知っていたはずなのに。

 考えれば考えるほど悲しくなった。さっきまでの上機嫌な自分と 浅はかな自分と でも、ただ喜んでもらいたかったんだもん。というわたしが どれも哀しかった。

この哀しみは二人には悟られたくない。

涙をぬぐって顔を洗って 元気よく

「おなかすいちゃったー。」とドアを開けリビングに入っていった。

カップがテーブルに置かれている。

あんなにもかわいいと思ったカップが ただただいまは恨めしい。

お母さんが

「お父さんもあんな言い方しなくてもいいのにね。」と どちらに言うでもなくつぶやいた。

それを聞いて耳まで熱くなった。

わたしは落ち込んでなんかない。別に哀しんでなんかもないのに何でそんなことを言うの?慰めなんかいらない。

平気なふりをしようと思ったのに慰められて かえってみじめになった。

コーヒーカップを嬉しそうに見せに来たミキのことも恨んでしまいそうな自分がいる。

あのとき ミキさえ来なければこんな思いをしなかったのに。と。

中学生の頃のコーヒーカップの思い出。

やはりまだ あの時の自分を想うと胸がきゅうっとなる。

部屋で今でも一人で泣いている自分が見える。

恥ずかしさからか、それとも愚かな自分に対しての哀しさからまだ泣いているのかと問いかけてみた。

 泣き腫らした赤い目で、違うよ。と言った。

どきりとした。

責めるような、射抜くような声だった。

違うよ。

ああ、わたしは恥ずかしさとショックのあまり 自分のあの行動のすべてを無駄で余計で要らないものだったと思いこんでしまっていたのだ。

 あの時のわたしただは喜んでもらいたいと一所懸命だった。プレゼントしたら楽しそうだとこころからわくわくした。それだけ。

わたしは自分の愚かさに哀しくなったからでも、恥ずかしさを呪ったから泣いているのではなかった。

違ったんだ。

 自分のことを消してしまいたいほど恥ずかしい存在だと思ってしまった瞬間に、わたしはわたしのことを あの日のあの部屋に置きざりにしてきてしまったのだ。

 そしてあの純粋にわくわくしていただけの まだ幼いままのわたしは
他の誰でもない自分自身に
恥と愚か者のレッテルを貼られたのが 
悲しくて哀しくて泣いていたのだ。

デリカシーのないお父さんも

慰めようとしてくれたお母さんも

ただ自分の嬉しい想いを見せに来てくれたミキも

ミキを責めてしまったわたしも 誰も悪くなんかなかった。


一番悲しかったのは わたしの行動を わたし自身が否定してしまったからだったのだ。

なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。コーヒーカップなんか買いに行かなければよかった。

お父さんが喜ぶなんて浮かれていたわたしがうかつで馬鹿だった。って思ってしまったこと。

自分なんか消えてなくなればいい!

そんな風に思ってしまったこと。

本当はそのことがいちばん悲しかったんだと思い当たった。

それに氣付けたとき
コーヒーカップの記憶の中のわたしは顔を上げ泣き止んで 少し微笑んだように見えた。

記憶は曖昧で、変えることさえもできるものなのかもしれない。

あの日のことをこんな風に少しでも前向きに思うことが出来る日が来るのだろうか。

食器棚に並んだ舞花が焼いてくれたお皿。

凸凹としていて端に飾りもついているので使いづらく、洗いにくいためなかなか食卓に上らなくなってしまった。使いこそしていないが 舞花がうちで使うんだと作ってくれたお皿を見るたび きゅんと嬉しくなる。

お父さんの 要らないものを要らないと言う優しさ。

お母さんが わたしが傷ついたことをわかってくれたうえで プライドまで傷つけないようにと考えてくれた言葉。

今ならわかる。不器用な二人の優しさ。

そしてわたしも お父さんとお母さんを嫌いになったりすることはなく どんな二人であろうとも永遠に大好きなままなのだ。そして、好きだからこそ切ないのだと思う。

明日二人に会いに行こう。舞花と瑞木を連れて 美味しいかりんとうを持って。


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