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「読みたい」の地層-2020.04-1

「この本が、自分に未知の何かを教えてくれる」「特別な感情を湧き上がらせてくれる」「ここではないどこかへ連れて行ってくれる」「もしかしたら自分を変えてくれる」「あるいは成長させてくれる」そういったポジティブな予感の集積によって、本は積み上がっていくのだ。自分は元々ネガティブな人間ではあるのだけど、世界に対して肯定的でなければその衝動は起こり得ない。だからこそ大事にしたいと思うのだ。」(施川ユウキ『バーナード嬢曰く。②』、p.44)
「読みたい」という感情は、積み重なって層になる。その層は、いつか振り返ったとき、その時の自分を知る手がかりになるかもしれない。

これは、ある本を読みたいと思ったときの感情を記録しようとする極私的ジャーナルです。


本当は、ポジティブな予感ばかりをつづりたかったのだが、いまはどうしても、ネガティブな感情が多く積み重なる。

まちがいなく、疲れている

正直、疲れている。原因は明確、新型コロナウイルスだ。自分が罹患したわけでも、身近に罹患した人がいるわけでもない。自粛する以外、何か行動を制限されているわけでもない。しかし、テレビをつければ、ネットのニュースサイトを開けば、SNSを開けば、新型コロナウイルスの話題ばかり、流れてくる。それを見聞きしているうちに、相当の疲れを感じるようになった。

ニュースなどで多くの時間を割いて取り上げることは当然だし、その時点において信頼できる情報を共有することは必要なことだろう。それに、自分自身もできうる限りの情報収集をして、その時点で最善の判断をできるように準備しておく必要がある。自分の仕事において「お客さま」にあたる人たちは、より不安な日々を過ごしているだろう、そうした人たちに少しでも安心してもらいつつ、この騒々しい日々が落ち着いた後に、いち早く日常を取り戻すための準備もしてもらわねばならない。自分が疲れている場合ではないのだ。

ただ、それでも疲れてしまった。だから、せめて日曜日の日中は、せめてテレビをつけるのをやめようと決意した(いま、ここで)。今日は仕事は休みなのだが、こうした状況で休んでいられるだけ、いいと考えるべきなのかもしれない。

感染者数の爆発的増大とか、医療機関におけるベッド数の逼迫など、自分ではどうしようもできないことの情報をいくらインプットしても疲れるだけだ。今日の夜、今一度ニュースで現状をチェックして、そして、自分がその状況に対して何ができるか、それだけを考えて寝ることにしよう。


日記をつける(荒川洋治著、岩波現代文庫)

この4月に楽しみにしていたことがある。

小田急線下北沢駅周辺が地下化したことに伴って出現したエリア、下北線路街に「BONUS TRACK」という商業施設が4月1日にオープンする。大好きな本屋B&Bが移転し、がっつり本を読みたいときに何度かお世話になったfuzkueの2号店ができる。B&Bを経営する内沼晋太郎さんが手がける「日記屋 月日」もある。

4月に入ってすぐの土日に、絶対行こう、と思っていた。ところが、こんな状況になってしまった。本屋B&Bもfuzkueも、日記屋 月日も、土日は休業だ。仕方がないことだ。

それでも、こんな状況だからこそと言っていいのか、内沼さんが以下のようなnoteを書かれた。なぜ、日記を書くことは楽しいのだろうか、いま日記を書くことの意味とはなんだろうか、を考えるにあたっての、静かでありながら熱く、有益な言葉たちだ。

事実だけなら、日記をつけなくても、スケジュール帳やメールのやり取りに残っていたりしますが、そのとき感じたことや考えたことは、ことばにしておかないと、大半は記憶から消えていってしまうからです。しかも、感じたことや考えたことは、ことばにするまでは大抵、ただ頭の中でぼんやりしていて、ことばになっていないものです。
ぼく自身も、プライベートな日記をつけていますが、大きな変化の時期には時間が取れなくなって、ほとんど何も書けなくなるときもあります。けれど、あとで読み返すといつもそのあたりで、なぜこういうときこそもっと、詳細に書いておかなかったのか、と後悔します。

まさにそうだ、と感じていて、正直1ヶ月前までは、新型コロナウイルスで世の中がこんな状況になるとは、思っていなかった。ただ、日々状況は悪化していき、危機感と不安が一気に募っていった。自分(たち)はいま、新しいウイルスへの対応に翻弄され、もがいている最中にある。だが、いつ、どこで、どのくらい状況が悪化し、危機感が募り、不安が心を覆うようになったか、その過程はどんなものだったのか、私はすでに思い出せなくなっている。

私も簡単な日記を毎日つけている。「コロナ」というワードが日記上初めて出てくるのは2月下旬。「コロナのせいでちょっと街中の人が少ないかも」などという呑気な記述だ。それからも何度か「コロナ」に言及するが、このウイルスに関するそのときの感情を詳細に記載し始めたのは、3月の中旬だ。

いつ、どこから、どうしてこうなったのか、もっと詳細に書いておかなかったことを、後悔している。後悔しているとともに、日記のちからを今一度認識し、もっと日常を記録したい、いま、ここで感じている自分の思いを、文字にしておきたいという気持ちは、今まで以上に高まっている。

内沼さんが上記noteの中で勧められていた日記本、いまこそ読みたい。

自分が日記をつけるきっかけをくれた本も、もう一度読み返したいと思った。


父になるつもりじゃなかった(内沼晋太郎)

内沼さんは「本屋B&B」の共同経営者として、もう一つnoteを公開された。

B&Bがオンラインショップで「デジタルリトルプレス」の販売を開始した。

そのうちの一つ、内沼さんが雑誌などで書かれたエッセイをまとめたものが『父になるつもりじゃなかった』。

内沼さんは、結婚とかしない人だと思っていた。失礼ながら、というか何かのイベントかどこかで、結婚するつもりがない的なことを話していた記憶があるからだ。それでも数年前ご結婚されて、お子さんも二人いらっしゃるとのこと。人の人生なんだから、周りがとやかくいうことでは全然、まったくないのだが、内沼さんがどういう心境の変化を経て(本当に変化なのかはともなく)、今、父となっているのか、それを知りたい。それは、日記を読む楽しさとも通底することなんじゃないかと思う。あるものごとに、人がどう対峙し、そこで何を感じたのか、その人というフィルターを通すことで、ものごとがどう見えるのか。

さっそく、購入。ニュースを遠ざけながら読むには、とてもいいものだと思う。


「読みたい」と思う本に出会うのは、本屋さんに立ち寄り棚をぶらぶら歩いている時だったり、SNSで本屋さんや本好きの人の投稿を見た時だったりが多い。こんな状況なのでぶらぶらで歩くわけにもいかないし、気軽にSNSで楽しげなツイートを探すこともできない。そうすると、どうしてもポジティブな予感に出会う機会が減ってしまっている。

それでも、日記をつけることだったり、本を読むことだったりが、なんらかの安心感を与えてくれることは、確かなことだと感じてもいる。

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