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売れたい 書きたい 言いたい 語りたい?

 note30日チャレンジも折り返し地点を過ぎた。質が極端に下がりそうなときはつぶやきだけにしてきた日もあったのだけれど、取り敢えずなんでもいいから書いてみた。Twitterを見ない代わりにnoteを読むようになった。

 noteと自分の作風はやっぱり合わない。エッセイのような個人的なことを書いていると、文章力が上がっているかは分かりにくいし、万一note上でバズっても、自分が実現したいタイプの注目を浴びるわけではない。振り子のように揺れる思いを抱えながら書いてきた。そこで、今の時点での自分の考えをここでまとめてみても良いではないか。情報提供するという動機では消費になるけれど、ほかならぬ自分の為に、こういうことを整理してみようと思った。

私は書くことで何がしたいんだろう

 売れたいのか、ただ書きたいのか、私の中でそれはずっとごっちゃになっている。売れたくないとは言わない。でも有名になりたいかと聞かれると、自分の名前や考えを広めたいとは思えない。むしろ皆知らないでいて欲しいと思う。アカウント名すら、文筆でやっていくならこのペンネームというのが他にあるのに(公募にはそちらの名前を使おうと思っているのに)、それを使わずに匿名性を残しているのがその証左だ。それなのに、どうせ小説家になるのなら、バンバン映画化されるような小説を書かないと意味がない、というかノーベル賞取りたいな? おおん? と思うのである。その矛盾はずっと私の中にあって、それをきちんと整理して、取り敢えずこういう方向がいいんじゃないのっていうのを、誰に相談するでもなく、自分の言葉でまとめなければならないと思ったのである。それがあやふやなせいで方針がぶれたり何度も似たようなことで悩んだりする。あるいは人に相談して困らせる。一旦ベクトルを定め、逡巡に使っていた体力を書くことに割く方がよいのでは、と。

そもそも売れたいとは?

 売れるのは、世間が求めているものと自分の提供するものが合っているからである。積極的に売れていくことを目指すなら、世間が何を欲しがっているかを読んで、それに自分をある程度合わせて物を作り上げていくということが重要になってくる。

 昼間、このnoteを読んでいて、うん、そうだよね……って思った。

 売れるためには絶えず世間が求めるものを探求し続けていかなければならない。しかし、他者の嗜好に寄り添うようなやり方をずっと続けていくのは、かなり大変なことではないだろうか。それを続けていくうちに、自分の軸を見失ったり、あるいは創作の楽しみがなくなったりしないだろうか。でも、探求の技術が上達したら、そんなに苦労せずに世間の欲しいものが捉えられるようになるのかな。そもそも、仕事にしたいと思っているのに、楽しみがなくなるかどうかなんて悠長なこと言っていていいんだろうか。でも、書く自分が楽しくないものは、多分売れない。

「それで売れて楽しいのか?」と私の中の私が問う。

 そりゃ楽しいと思う! 売れれば! (拝金主義)

 ……ただ、そのやり方が自分に合っているのかは分からないなあと思う。

 (ちなみに、「世間の欲しいものを探求する」とぼんやり書いたけれど、ニーズとウォンツという考え方に立つなら、ウォンツを追いかけるのは疲弊しそうだけれど、ニーズを提供するという心構えなら、それの方が大変ではあるが、疲弊はしないだろうし、書き手としてのスキルアップもできるのではないかとも思う。そこらへんはまだ整理できていない)

じゃあ書きたいとは?

 それとは別に、「どうしても書きたいものがあるんだ」とか、「その時浮かんだものを書けばいいじゃないか」という話もある。既に売れっ子作家で技術も高いなら、その人の「書きたい」だけを形にしても売れるはずだ。また、創作をただ楽しむだけ、お金を稼ごうとしないなら、それで十分という考えもあるだろう。

 しかし、書きたいという衝動を純粋に満たそうとするのは、私には荷が重い。書くということそのものに付きまとうオナニー臭や、上がっているのか分からない実力、運と戦わなくてはいけない。やっぱり私はどうせ書くなら客観的に見ても分かるほどにレベルアップしていたいし、何かしら価値が認められないと「これでいい」って思えないみたいだ。運と言ったけれど、それは自分の努力の埒外のところに必ずある。文章にはまぐれあたりはないという意見をたまに見かけるが、どんぐりの背比べの中で、どの記事・どの小説を選ぶかという時、運の要素はつきまとうだろう。そして私は自分を運のいい人間とはあまり思えない。

 ともあれ、よりよく書くこと、善き物語を作ることはまだまだ、まだまだ改善の余地がある。それを追求していく先に、世間の求めるものと合致する瞬間が来るのだろうか。

 また、書きたいものというのは、引用したnoteで言うところの「魂を売る」ことだと思うけれど、書きたいものを追い求めていくことは、売りたいを追い求めていくのとは別の、魂を削るような行為であると思う。それをずっと続けていくのもしんどいのでは……。

 いやいや、森博嗣先生は、ロジックで「こういうところにニーズがありそうで、自分はこういうことはできそう。うん、ハマりそう」ってな感じで小説を書き始めて大ヒットじゃないですか、と思う。

 もっと言うと、彼は私と同様、小説が良い収入になったことには感謝しこそすれ、有名になりたいというような関心はなかったらしい。売れたいと書きたいの接続点がなくてもいいのかも……。いやいやそれは一握りの、運も、知能も、努力の才もある人の話で、自分がそれに当てはまる人材だと思っているなんて自惚れ、勘違いもいいところでは? 社会ではずっとマイノリティの道を進んで来た私なのに。

 どうも、書きたいだけでも不具合があるみたいなのである。

言いたい、語りたいもあるみたい……

 創作をしたいということとは別に、ただ言いたい、あるいは人と語りたいという気持ちも私にはあるらしい。その役割はずっとTwitterが担ってきた。だけれど、Twitterを続けていくことも私には苦しかった。ざっと挙げてみると、

 ・Twitterは時間泥棒が過ぎる。創作分のエネルギーを浪費してしまう

 ・書きたいと言いたいの場が一緒であることに居心地の悪さを感じる

 ・自分の「今日は〇〇しました」を人に話すことの意義を考えてしまう

 ・いくら仲良く会話している相手でも、本当の繋がりは希薄なのが切ない

 ・不幸にして仲違い/疎遠になった人の影を気にしてしまう(時がある)

 ・Twitter内で議論が紛糾した時、常にマイノリティ側の意見である自分を自覚する(そしてそんな自分の創作は売れないと思ってしまう)

 うっ、ネガティブ。

 もちろん、これらを気にせずに話していられる時期もあるのだけれど、はー盛り上がった、楽しかった、So What? って突然虚しくなってしまうのは止められない。こんな風にごちゃごちゃ考えるような人間じゃなきゃ良かったのだけれど、そうそう考えは変えられないし、私は他人にはなれない。

 この傾向はnoteにもある。

 私はそもそも人との交流があまり得意ではない。気にしいだけれどぶっちゃけ他人にそこまで関心を抱けないし、誰かの感動や痛みに寄り添ってあげるのも難しいと感じる。だけれど、人が楽しそうにやっているのを見ると、それをできない自分にがっかりしてしまう。

 note内の大きいアカウントの人たちは、私より交流好き/上手に見えるし、積極的に交流していない人でも、言葉から人の好さ、快活さが滲み出ている人のように思う。今は創作者であっても、作品だけ良ければよいのではなく、人柄含めて評価されるところがあるとはよく聞く話だ。私は無理だなあ、って思ってしまうのである。

 でも、それでも私は言いたい、語りたい。

 たとえば、今日は、本当はこんな創作にまつわる煩悶なんかではなく、せっかくクリスマスなのだから、午前中作ったケーキと、そのケーキのレシピにまつわる我が家の思い出なんかを書きたいと思っていたのだ。そういうの、すごく優しい話になるだろうし、noteっぽいかなあって。だけれど、「よくわからんキャベツアイコンの人のケーキがどうできたかなんてどうでもいいやろ」「我が家の思い出はそれはもうノスタルジーに溢れ、心がきゅんとする話だと思うけれど、それをここで消費してしまっては自分が痩せるのでは」と思って書くのをやめたのだ。

 noteでは形にするのにつぶやきより労力が要るので、そういう消費をすんでのところで避けることができるが、Twitterだと簡単につぶやけてしまうために、自分をぼろぼろちぎってどんどんネットの虚空に投げてしまう。Twitterを始めた数年前はセーブできていたのだけれど、習慣というものは恐ろしく、一旦Twitterを止めても、再開するとまた脳内垂れ流しをしてしまうのである。

 SNS上のイイネやRTに価値を見出せない私なのに、なぜ今日ケーキの話をしたいと思ったかというと、そこに、承認欲求以上にぐっとくるストーリーがあるからで、私の心のエンジンを動かす何かがそこにあるからだ。言いたい、語りたいにも、創作の芽はあるのである。

これからどうしていけばいいんだろうね

 あっはー。わかんないね!(ガブ fromジャイキリ)

 ……は冗談だけど、売れたい、書きたい、言いたい・語りたいをどんどん掘り下げていくと、共通の鉱脈にぶち当たるみたいだというのは分かった。じゃあ結局私は以前と変わらず、似たようなことで堂々巡りの思考を続けるのかな……。いやいや。

 取り敢えず、何かしら書こうとするときに、これは「売れたい」のか「書きたい」のか「言いたい・語りたい」のかってことを意識することがいいのかもしれない。それはこれまでもぼんやりとはしてきたことだろうなとは思うけれど、自分が「売れたい」の時に心が動くのか、「書きたい」の時にそうなのか、そしてまたそれぞれでの心の動き方、文章を鍛錬したいと思う度合いなんかを観察していく。たとえば「言いたい・語りたい」はなるべく貯めて、「書きたい」にエネルギーを振り分ける。そんなことが可能なのか分からないけれど、精神を書く方に安定的に保って、なるべく上手に平然と書き続けられるようなスキル(そう、多分これはスキルだ)を身に付ける。すげー難しいこと言っていますね。

 ともあれ、そういうサイクルを沢山回すこと、流量を増やすことは、note30日チャレンジの一つの効用なのだろうなと思う。

追記:つらつらnoteを見ていたら、この記事を見つけた。そう、やっぱり自分の興味に忠実でいないといけないですよね。だから私はあんまりSNSやってる場合じゃない。コメント欄が設けられていないし、マガジンに他の人の作品を入れるのは趣味ではないのでここに置いておく。あなたの思考を読ませてもらってありがとう。私、やっぱり作家と名乗りたい。


※note30日チャレンジ16日目 累計 25,618文字(オフライン含め28,078文字)

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