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ここで会いましょう 第四話

 透明の自動ドアが開くと、外界には音があるのだと感心する。小さな虫の鳴き声や遠くに響く車のエンジン音が、極めて静かな内部の空気に波紋を広げる。客人がハイヒールで絨毯を踏みしめる、さく、さくという音が、躊躇なくロビーを抜け、建物の奥に真っすぐ向かう。新人の案内係はどうやって声をかけるべきか分からず、おろおろしながら彼女の後をつけているが、客はそれに構わず、通路を歩いていた、白髪交じりの痩身の男に背中から声をかけた。

「来ちゃいました」

「そろそろ、いらっしゃる頃かと思っていました」

 樹はいつもと変わらない、一糸乱れぬ優雅な敬礼を彼女に披露した。

◇ ◇ ◇

 彼女は小見雅子さんといった。いつも、同じ記憶を消しに来る。交際している男性、ケンジさんの記憶を。

「今回はかなり我慢したんですけど、やっぱりダメでした」

 小見さんとケンジさんは、付き合っては別れるを繰り返していて、そんな関係がかれこれ8年は続いている。尤も、「8年」というのは小見さんがこの施設に初めて来たのが8年前というだけであって、いつから付き合っているのかは分からない。小さな小競り合いはしょっちゅうあり、それが手ひどい喧嘩に発展して、売り言葉に買い言葉で別れることになるの。普通ならそこで縁は切れるはずだが、二人の場合、本当に別れたことにはならないらしい。その何十回のうち何回かで、心が手ひどい傷を負った時、彼女はここの門を叩くのだった。

 彼女の方は記憶を無くしているのに、何故復縁するのか樹はいつも疑問だった。彼女によると、普段仲直りをする時は彼女の方からで、ケンジさんが折れることはないという。

「分からないんです。記憶を消しに来る時は、職場も変えて、なんなら引っ越しもするのに、それなのにあの人に会ってしまうし、また好きになってしまうんです」

「ふむ……その時だけは、あなたを失いたくなくて、ケンジさんが追ってくるんでしょうかねえ」

「……分かりません。もう私に気持ちなんてなくなってると思うのに、それでも好きでいてくれてたんですかね。信じられないですけど」

 彼女は美容師だ。業界全体に流動性が高く、ふっと店を移る人が少なくないから、突然辞めても、履歴書で店を転々としていることが分かっても、そこまで怪しまれることはないらしい。広いようで狭い東京のことだ、紛れようとしてもまた同じ人に出会ってしまうのだろうか。いずれにせよ、当事者の片方から聞く話はいまいち要領を得ない。

「でも、今回は少々難しいかもしれません」

「なんでですか? お金なら毎回支払っているし、今回もちゃんと……」

「あなたが記憶を消すのは、今回で六回目です。これまで、六回以上記憶を消した人は居ないのです。記憶を消すのは何回までという規定はありませんが、それは何回消しても大丈夫だからではありません。そもそも、何回も記憶を消す人を想定していなかったからです」

「これまで記憶を消した後、特に問題は起きていないと思うのだけど」

「もちろん、自覚症状はまだないでしょう。我々は狙った記憶のみを消すようにしていますしね。しかし、我々もまだ脳の全ての仕組みを理解している訳ではないのです。いつ脳の中のバランスが崩れ、あなたの自我が壊れてしまうかは分からない。そして、これは推測ですが、記憶を消す回数が多ければ多いほど、その可能性は高まるでしょう」

「そんな……」

「現に、あなたの短期記憶領域に若干の懸念材料が見られます。しかしなにぶん、規定のないことなので今直ぐお断りすることもできません。しばらくお待ちください」

 この「しばらく」の間に、小見さんとケンジさんが復縁し、記憶を消すのを思い直してくれることを、樹は内心期待していた。どんな客にも誠実に応対するのが理想ではあったが、なるべくリスクの多い仕事はしたくなかった。樹には、小見さんの刹那的なところはいまいち理解できなかったが、彼女とそれなりに長い付き合いになっていたので、これ以上酷いことになって欲しくはないという、人に対する素朴な思いが彼の中にはあった。また、彼女が記憶を消すことに依存しているようであるのも、樹には辛いことだった。最初の仕事で彼女の依頼を拒絶していたら、今こうなっていなかったのではないかと、樹は思わずにいられなかったのだ。 

◇ ◇ ◇

「もう、やめて欲しい。やめようよ」

「そんな、だって、私は……」

「なかなか連絡出来なかったのは悪いと思ってる。だけど、僕にも限界がある。僕は君の不安を解消する道具じゃないんだ」

「そう……だよね……」

(分かった。じゃあ、私があなたに傷付けられた気持ちは? それも勝手に私が傷付いただけだって言いたいの? あなたは分かっていてやったに違いないのに。それをはっきりさせたいと思うのは、ダメなことなんだろうか。でも、彼はたとえ私と別れられるのだとしても、自分にとって都合の悪いことを答えてはくれないだろう。私も、言い争いを続けて、これ以上嫌われるのは嫌だ。でも、また都合よく丸め込まれるのも嫌……。少しでも延命したい気持ちがあるなら、私は我慢しないといけない。でもこの我慢が良くないことも知っている。何日か後に、二倍、三倍になって私を襲うから)


 ああ、出会った頃の、ただ好きだ、いとおしいと言い合っていた頃の私たちはもういない。私は表向き、もう気持ちがなくなったのかと彼を詰るけれど、じゃあ自分は本当に彼のことを好きだったのかと問われると、自信がない。彼のどんなところが好きだったんだろう。あの頃の私は、彼のことを何にも知らなかった。そして、彼のことを知り尽くした今、私は彼を好きということ以上に、呆れ、失望し、憎んでいる。あの頃の私は、「付き合いたての恋人」が好きだっただけかもしれない。

 好きだったあの人が消えてしまう、ならいっそのことあの人ごと消してしまいたい。この人はもうあの人ではないのだから。そして、愛するあの人にもう会えないのなら、この恋心にもう当て所がないなら、そんな自分も消えたい。

◇ ◇ ◇

 行きつけの珈琲専門店のカウンターで、今時珍しい紙の本を広げて樹が本を読んでいると、後方のボックス席に座る客の声が漏れ聞こえてきた。

「えー、またあの子、不倫してるの」

「そうなの、しかも今度は社内の上司なんだって」

「そっかあ……。そういうの、バレないのかな。直属の上司なんでしょ」

「私思うんだけど、あの子からそういうオーラが出てるんだよ。二番手オーラというか」

「あー分かる。いやあの子のことがそうって感じてたわけじゃないけど、悪い男はそういうの敏感に感じとりそう」

「いっそあの記憶を消すところで、今までの男の記憶、消しちゃった方が良さそうじゃない?」

「どうなんだろう…….。普通、嫌な経験したら二度とそうならないようにするものだろうから、消さない方がいいよね。でも、そんなに続くなら消した方がいいのかもね」

「まあ、本人はその上司に今はべた惚れしてるから、何言っても聞く耳持たないと思うけど」

「ああああ……ホント、美人だし性格もいいんだから、いくらでもちゃんとした恋愛ができそうなのに、なんでそうなっちゃうんだろうねえ」

 自分の職場の話が、こういう恋愛話のネタにされがちなことは樹はよく承知していた。

(確かにねえ……小見さんの場合、どうなんでしょう)

 相手の欠点や裏切り、どうしようもなく傷付けられた言葉、決定的な考えのすれ違いが貯まれば、もう元の関係には戻れない。それを消すことが出来れば、恋心はまっさらな状態で生まれ変わるのだろうか。

 でも小見さん側だけが記憶を消したところで、関係は修復できるのだろうか。記憶を消す施設は国内にはここ一つしかないから、ケンジさんが他の施設で記憶を消した可能性は限りなく低い。

 いや待て、そもそも小見さんは一度記憶を消しているのだ。新しい恋人が、前と同じ「ケンジさん」だと認識できるはずがない。ということは……。彼女の記憶は、我々が想定している以上に、ボロボロの虫食い状態になっているのではないか。

 樹はそそくさと会計を済ますと、職場に急いだ。今日休暇をとっていたはずの私服姿の樹に、すれ違う職員がびっくりして振り返る。

「装置を止めてください!」

「いえ、もうスイッチを押してしまいました。今動かすと危険です!」

◇ ◇ ◇

 小見さんは施設の二階にある入院施設にしばらく入ることになった。自発呼吸もできるし、スプーンは持てないものの口から栄養は摂れる。けれど目の光は薄いグレーになって、もうなにも映してはいないし、なにかを受け入れようとする意思も見受けられなかった。もちろん、言葉を発することもない。

 技術班は彼女の脳波を測定したが、通常の人の脳波とさほど変わらないということだった。記憶削除の前に、どの記憶を消すか狙いを定めるためにする検査も施したところ、全く記憶が無くなっている訳ではないらしい。これらの結果から、脳が混乱状態に陥っているのだろうと結論付けられたが、この状態がいつまで続くのか、悪化するのか良くなるのかは誰にも分からなかった。

 仕方がなく、引受人欄に名前が書かれていたケンジさんを呼んだ。やはり小見さんはケンジさんとやり直したかったらしい。

「記憶を無くそうとするまで気に病んでいたなんて」

 彼は真っ白な顔をしている小見さんを見て泣いた。やはり彼は彼女の追い求めた「ケンジさん」ではなかったのだ。彼がその人なら、彼女が何度も記憶を消していたことを知っているはずだ。

 何代目かのケンジさんは、責任は自分にあるのだから、彼女の面倒は自分が見ると言っていたが、結局実家の両親が彼女を引き取り、今は瀬戸内のある施設で暮らしているらしい。最近は花や猫を見て微笑むようになったそうだ。

 きっと最初の恋人が忘れられないという、単純な話ではないのだろう。彼女が求めていたものが何だったかは、今や誰にも分からない。

◇ ◇ ◇

 樹さん、あんまり悲しまないでくださいね。私、今とてもほっとしてるんです。だって、もう誰のことも好きにならなくて済むんだから。親には迷惑をかけてしまっているから、そろそろ回復した方がいいのかなと思うけれど、もう少しだけ、この記憶の海の中でたゆたっていたいのです。

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