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読書の効用

 読書は、書くためには欠かせないと言われる。文章でも、文章の代わりに何か体験するのでもいいのだけど、吐き出す分より多く摂取しないと栄養失調になる感覚はある。正確な必要摂取量はわからないのだけれど、栄養失調になると何かを書きたい気持ちが湧いてこなくなる。

 読書量と文の巧拙についても関連があると言われることが多いように思う。しかし、書き手で、本を読んだことで明らかに実力があがったとか、この作者の本、あるいはこの作品を読んで自分の文体や表現力ががらりとよくなったというような体験をした方はいるだろうか? おそらくそんなにいないのではないかと思う。あえてそういう経験があったというなら、それはティーンエイジャーまでの読書量や読書体験からではないかなと想像するのだけど。皆さんに実際のところを聞いてみたい。

 読書家ならおさえておくべき作品というのは大体決まっている(と思う)。国内では明治・大正・昭和の文豪はさらっておくべきだし、それに加えて自分の好きなジャンルの現代作家も。海外文学は、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、ロシアの巨匠たち、ラテンアメリカならボルヘスやガルシア=マルケスなどの有名どころは最低でもおさえたい。アメリカだってヘミングウェイにフィッツジェラルドにオースターにミルハウザー、他にも沢山。最近は中国SFも熱い。

 じゃあ、それをあらかた読んだら書けるようになるのか。否、ならない。

 漫然と読んでいるのではダメだろう。じゃあ分析しながら読むのか。否、それでは物語を味わえないし理解できない。

 どういう態度で読めば血肉になるのだろうか。一歩離れて読むのと、どっぷりつかるのとの間の態度がいいのだろうか。それとも、元々才能がある人や、生育環境から特殊な世界の見方を獲得している人が沢山読み、書けているだけなのだろうか。

 一日は二十四時間しかなく、近所の図書館に入荷している本は限られ、全部購おうと思うと膨大な金が必要だ。それに、世間一般で良いとされているモノを読んで、それが自分に合うとも限らない。読むという間接的な体験から自分の筆力をあげるより、書くテクニックを指南する本を読んだ方がよいのではないか。あるいは書を捨て、街や野原に出た方がよいのではないか。いくら唸るフレーズ、思わず涙がこぼれる表現に出会っても、それは偉大な先達が発明したそれであって、新規性はもう失われている。そして、他人の文章を見てハッとしているということは、その文章は自分の中から出てくるタイプの文章、世界の見方ではないということなのだ。

 調子の悪い日、私は本屋に行けなくなる。本はうるさい。読んで、読んでと口々に言う。皆必死の形相だ。そして私は彼ら彼女らの腹に入っている文字が怖くなる。そう、書くのもだけど、読むほうも精神的に元気でないとできなくて、そういう時、私は仕方なく随筆を書いたり日記を書いたりする。少し前ならTwitterだったけれど。随筆は私にとっておしゃべりに近い。本当は随筆も、本当に随意にやらず、ちゃんと起承転結をつけて、合間にほろりとさせて、読む人に何かを持って帰ってもらうように配慮した方がいいんだろう。私もそうでありたいし、それならそういう努力をすべきなのだろうけれど、だらしなく書きなぐっている現状がある。

 冒頭の問いは解決しないまま横たわっている。Twitterをやっていた頃は相互さんが読了報告してくれた本や、プロの作家や翻訳家が紹介している本をブックマークして、新刊や面白そうな既刊情報を集めていたけれど、今は自分がブレそうでしていなくて、自分の気の向くまま図書館で本を借りたり、増え続ける一方だった積ん読を少しずつ減らしている。「本当に今読むべきはこの本なんだろうか」「読むより、書いたり構想を練る方が先なのではないか」と時折胸をぎゅっと絞りながら。


note30日チャレンジ29日目 累計 52,496文字(オフライン含め54,909文字)

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