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井戸を掘るか体験に学ぶか。ベルセルクとのだめカンタービレについて思うこと

 ベルセルク、近所の図書館に置いてあって、いつもチャレンジしよう、チャレンジしようと思いつつも「今度でいいか」と先伸ばしにしていた。

 そこに突然の訃報。

 ずいぶん昔に、誰かと三浦氏の対談だか、誰かが三浦氏のことを評している随筆か創作論を読んだ。おそらく後者だろう。

 三浦氏は当時アシスタントもほとんど置かずに、一人で描いているという話だった。出掛けることもなく、出掛けるとしても漫画のための調査や打ち合わせだけで、ひたすら漫画を描く生活。「自分の命が続く間に、頭の中のストーリーを全部出し切れるだろうか」とこぼしていたらしい。

 交友関係も限られ、食べているものもきっと漫画のための餌で、睡眠だって十分に取れてはいないだろう。しかし三浦氏は、「人生において、実際に自分の目で何かを見、体験した経験というのはきわめて少ないし、自分の(現実の)世界は狭い。けれど、それが悪いこととは思わないのだ」というようなことを言っていたそうだ。

 当時、「のだめカンタービレ」が絶世の人気を誇っていて、のだめのライバル、Ruiも似たようなことを言っていた。たしかこんな感じ。

私は、経験できないと弾けない人ではない。

 三浦氏についての文章と、Rui の言葉を重ねあわせて、私にはここまで徹底できないなと打ちのめされた。私も交遊範囲は狭いけれど、ここまで開き直れない。三浦氏のような姿勢を取るのと、人と広く交流して自分を刷新しながら書くのと、どちらが成功率が高いのだろうかと、どちらも自分には茨の道なのに、こすいことを考えた。
 経験していなくても表現できるためには、自分や世界への冷徹かつ愛のある目と、確固たる世界を自分の中に構築できる頭の良さと根気と技術が必要だと思うが、私は強いていえば感覚派ののだめに近く、あるいはRui派だったとしても鍛練が足りず、けっきょく中途半端で、そのどれも持っていないと思った。


 結婚して、外で仕事もしないまま子育てをしていると、交遊関係はどんどん狭まる。昔からの友人はライフサイクルがずれてくるし、同じく子育て中だとお互い忙殺されて連絡を取り合わなくなるし、新しく園などで出会う母親達とは、表面上はうまくやれても、「友達」と言い切れるまでになるのは難しい。

 休日のフードコート。夫婦と子供二人の客が、大盛りのポテトを分けあっている。向こうのテーブルでは、もう食事を終えたのか、サーティワンアイスを舐めている親子三人組がいる。皆幸せそうだけれど、親役をしている彼らが孤独から逃れられているかは分からないと思う。慌ただしくも騒がしい風呂を終え、パートナーが子供と一緒に寝室に行ってしまった後、リビングが急にしんとする。誰かと話したいが、この人にもあの人にも、用もないのに気軽にLINEを送れないような気がする。彼女は諦めて携帯を置き、Netflixを起動する。


 奇しくも三浦氏のような環境に置かれた今、もうそういう風にやるしかないじゃん、みたいなことを思う。

 余計な力が作品にこもらないための対策は必要だと思う。そのためには、私自身がもっと生きやすくなっているといいと思う。でも、その試みは限定的でよくて、孤独であることに、もう私は後ろめたさを感じなくてよいのではないか。

 自分と作品の対話に終始し、自分を常に掘り下げ、自分の為に描く。社会から距離を置くような生き方もまた、作家として、あるいは人として認められていいのではないか。

 今読んでいる本に、「作家は孤独で部屋に閉じこもって書かなければならないと憂鬱になる必要はありません。もっと行動していいし、オープンになっていい」みたいなことが書いてあった。
 たしかにそうだ。どんどん人と関わり、新しいことを吸収して自分を改変し、自分を演出しながら作品を発表する。それが出来れば、それに越したことはないと思う。

 でも、他人のために書こうとすることが、自分にとって、書くことに対する後ろめたさや、書くという孤独な行為をしていることに対する免罪符にしかならないのなら、いっそそれを捨てて、自分の中に深く潜ることこそ必要なのではないか。井戸を深く掘り続けたら、地下水脈にあたって他人に接続することもあるかもしれないが、それを期待してはならない。ただただ、自分のために書くこと、それを突き詰めた先に見えるものもきっとあるはずだ。

 そもそも、誰かのために書くと言う時、その誰かにはもう一人の自分を含むのかもしれない。書くために様々な本を読んでいる時、私は決して孤独ではなく、著者との対話をしているように。

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