映像と言葉の表せるものは違う など

 三年前、NAILHOLICというブランドから出ていた、三色×トップコートという限定マニキュアを酔狂にも三種類買ったのだけれど、色味の違うベージュが三種類入ったセットは全然使っていなかった。パーソナルカラー診断でいうと私はイエベ春らしいのだけれど、多分その関係でどのベージュも微妙に肌馴染みが悪かったのだ。

 しかし昨日、戯れに一番に合わなかった色を塗ってみたら、当時ほどは違和感がなくて、むしろ似合うくらいになっていた。そんなことあるんだろうか。日焼けのせいかな。


 引き続き「芥川賞候補傑作選」を読んでいる。「ヴァイブレータ」は映画を観たことがあった。借りたんだったか、映画館で観たんだったか。映画ではちょっとイっちゃってるアル中女(寺島しのぶ)がトラックのあんちゃんとセックスするというだけの話に思えたけれど、文字にすると、アル中女の頭の中がもっと詳細に描かれていて、これを映像化するのは困難だろうと思った。やっぱり文字にしかできないことはある。けれど、そんなの流行らない世の中だと言われたらその通りかもしれない。淋しいなあ。

 「西日の町」は読む前に最後の選評を読んでしまった。平成編2の最後の作品だったから早く読み終えたいという焦りがあったのだ。

 この話は、祖父と母の関係を孫の目を通して語るというような形になっているのだけれど、親子三代にしてしまったせいで、視点が遠くなった、孫である主人公にとって祖父や母との思い出がどう切実なのかが伝わってこないといった選評だった。

 確かに祖父と母の一筋縄ではいかない関係は細かく書けていて興味深く、なぜこれを前面に出さないのかと感じたから、孫の視点を取っ払ったらもっと良かったし、もしかしたら芥川賞受賞も叶ったのではないかと思った。勝手な妄想だけれど、作者は女性であるがゆえに、どうしても母の目線、すなわち娘の目線のことを書きたくなってしまって、祖父にフォーカスしきれなかったのではないか。孫を女の子にしたらその辺りのバランスが調整されたのではないかとも思った。でも、こういう風に書きたい気持ちも良く分かる。主人公を語り手に留まらせたいという気持ち。こういう時に、三人称小説にすると具合がいいんだろうと思う。

 「今回は投票前から〇〇が良いというのが委員の総意で」みたいな回の受賞作を読んでみたくなる。その中には既に読んだものもあるけれど。また、そういう強い作品が出た回で、同時受賞をもぎ取るのは難しいんだろうなあとも思って、なんだか胃が痛い。

 もうひとつ、「猫の喪中」は選評に、途中からある二人が出てきてから物語に精彩が生まれたとあった。確かにその辺りから俄然面白くなった。面白くなったとは、先が気になる、この人たちの話が聞きたくなる、この人たちの対比で主人公にも色が付くといったような意味で、もう少し早くこの二人を出していたら物語がもう少しピリッとしたんだと思う。残った後半で、主人公と女の関係を深掘りしてもよかったんだし。

 まあ、人の作品はなんとでも言えるよね。自分の作品も人の作品と同じように批評できるといいのに。人の作品を批評していたら自分のもうまく書けるようになるかしら。しかし色々なところで選者をやっている作家の作品が散々の出来とかありがちだしなぁ。

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