担任しかできない。

 年長の娘のクラス担任はすこぶる美人だ。どれくらい美人かというと、本人が望めばモデルや女優としてやっていけるくらい。背も高くてすらっとしていて、見ているだけで癒される。私は娘が年少の頃から「いつかこの先生に担任になってもらいたい」と思うほどで、そんな風に思うのは失礼だろうかと思っていたけれど、今年、同じクラスの他の保護者と話すと、「本当に麗しくて目の保養になる」という言葉がどこからも聞こえてくるので、あ、私だけではなかったとホッとした。先生本人にとっては、たとえ褒める意図だとしても、外見のことを陰でとやかく言われているのはあまりいい気分がしないかもしれない。とはいえ、やはり美しいものには自然と目がいってしまう。私が何ともいえない罪悪感を覚えるのは、Twitterのルッキズムダメ絶対な論調に毒されているせいもあると思う。

 担任の先生の外見について述べたけれど、彼女は保育のスキルもダントツで素晴らしい。彼女はこの仕事が好きだし、向いていて、モデルや役者になれるよといってもそれを望まないのではないかという気がする(収入などの待遇面では迷うこともあると思うが)。

 子供はバス通園なので私はあまり幼稚園に行かないのだけれど、預かり後に迎えに行ったりするときなど、通りかかると私を呼び止め、園での子供の様子を話してくださる。しかも、親が日頃少し気にかけていて、園ではちゃんとやっているだろうかと思うようなことや、トラブルとまでは言えない程度の揺らぎについて話してくれるのだ。もちろんうちの子だけでなく、他の保護者にも同じように対応しているらしい。普段から子供のことをちゃんと観察して、保護者の顔と名前を一致させられていて、その保護者が来た時にさっと言えるように準備していないとできないことである。

 私は保育園に子供を継続的に預けた経験がないので分からないけれど、幼稚園では、子供の様子について書かれた連絡ノートが来ることはない。さらにバス通園では自分の子が園のことを報告してくれるかが頼りで、「今日はなんにもなかった!」と言われたらおしまいだ。そういう二年間を過ごしてきた私にとって、今年の担任の先生は奇跡を体現したような存在だった。

 長く園にお世話になっていると、ママ友がほぼいない私のような人間にも、先生の評判がちらほら聞こえてくる。主に年少クラスを担当していたまい先生(仮名)が、今年担任を外された。去年度、そんな風にフリー教員になった別の先生は、年度いっぱいで退職してしまったから、この配置は退職してしまうフラグなのか、評判は良いのになあと不思議に思っていた。

 次女は担任の先生の名前より、副担任の彼女の名前をたくさん口にする。今日はまい先生とおままごとをして遊んだよ、(おもちゃの)ニンジンを植えたよ。もちろん、次女と先生の相性もあるし、担任が仕事を片付けている間に、副担任が子供に近い位置で時間稼ぎのおゆうぎをすることもあるのだろうから、担任を悪くいうつもりはないのだけれど、少なくともまい先生は評判通りのいい先生であることは間違いないようだった。

 うちの園は今年から、年少・年中に限って副担任が付くようになった。年に何度か、複数の学校から教育実習生が派遣されてくる。実習生のいない期間は始業式や終業式前後くらいなのではないかと思うほどだ。それだけ幼稚園教諭になりたい人は多いのに(もっとも、中には資格を取れるだけ取っておこうという人もいるだろうが)、そんなに先生が入れ替わる訳ではないから、園は社会的責任として受け皿を増やそうとしているということなのだろうか、などとぼんやり考えていた。

 多分、担任よりも、副担任の方が難しい。決まった仕事がない中で、担任の負担を減らし、園児の視線の先に目を向け、仕事を作っていかないといけないから。

 あゆみ先生(仮名)という先生がいる。少なくとも私の子供が園にお世話になっている間、ずっと担任をしているのだけれど、この人は担任しかできない人だ。それも、まだ幼くて細やかな目を向ける必要がある年少は向かないし、こましゃくれてきた年長児が起こすトラブルを、うまくまとめることもおそらく難しいだろうと思う。彼女がもし担任を外れてフリー教員になることがあったなら、それは実質クビ宣言になるだろう。時間が押し気味になることが多いはずの保護者面談で、彼女のクラスだけは恐ろしく早く済む。

 ただ、それはあくまで保護者からの視点であって、子供にとっては、ある程度無関心で放っておいてくれる担任の方がのびのび過ごせるのかもしれないなどと思う。どちらにせよ、今年の担任やあゆみ先生が、日常どんな保育をしているかは保護者からは見えない。だから、これまでのことは全部私の妄想で、的外れの感想なのかもしれないな、と思う。

 今年の担任が「当たり」だったから、これまでお世話になった先生達との違いが鮮明に理解できるようになったということは言えるだろう。しかし、彼女が理想の保育をしていたとして、それを全教員がすることが是だとも思えない。子供がどの程度受け取れるのかは分からないけれど、「良い」とされるものを大量に均質に受け取ることよりも、「良い」も「微妙」もごたまぜで、様々な人から様々な刺激を与えられることの方が意義があるような気がする。

 こんなことをぼんやり考えるようになったのは、今年幼稚園の役員になって、ちょこちょこ他の保護者と関わりだしたからだ。私は園にあまり期待していなくて、自分がどうしたって与えられない「同世代の集団の中で過ごすこと」を提供してくれればいいやというくらいにしか思っていなかったのだけれど、人との会話と、自分にはない視点の享受は新たな考えを私にもたらしてくれる。

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