掌編 沖縄の粉
私たちのアパートは洗濯物がよく乾く代わりに夏は猛烈に暑かった。去年死ぬ思いをしたので、今年はグリーンカーテンを作ることにした。私たちは学生でお金がなくて、ガンガン冷房をかけるわけにはいかなかった。
彼が買ってきたのはゴーヤじゃなくてヘチマの苗だった。「ゴーヤなら食料にもなると言われてたのにごめん」普段なら烈火のごとく怒る私が怒らなかったので、珍しく彼の方から自主的な詫びが入った。私が怒らなかったのは、ゴーヤよりヘチマの方が好きだったからだ。
とはいえヘチマ料理を自分で作ったことはなかったので、九州に住む祖母に電話して作り方を教わった。ヘチマ汁を作るには関東の味噌じゃだめだから、麦みそを送るといわれた。みそにしては段ボール箱が大きいし重いなと思ったら、かるかんも九州しょうゆも辛子蓮根もうまかっちゃんも入っていた。私はそれで少しホームシックになった。
彼は関東の中でも少し田舎の方の出で、多くの男の子がそうであるように、肉と卵を甘辛く味付けしたものと米があれば満足という質だった。彼の体の構成要素は関東のスーパーによくある肌色の合わせ味噌から、麦の粒が目立つ味噌に、黒いしょうゆから甘いしょうゆに置き換わっていった。
私たちの部屋にはたまに同級生が遊びに来た。何人かで飲むときは、ポテトチップスやポッキー、上にちょろっとワカメやにんじんの細切りが乗っているだけのキャベツサラダなど、ヘルシーだかジャンクだか分からないものがテーブルに並ぶことが多かったけれど、うちが出した料理を食べると皆言った。
「ここ、関東だよね」
「へんだろ、ここだけ磁場が九州で。だけど俺、もうそういう舌になってるんだよな」
私だけ発泡酒やチューハイを買い足しに行って戻ってきた時、居間で彼がそう言っていたのが聞こえてきた。嬉しかった。
あまりの暑さにヘチマが一本枯れたので、空いたところにゴーヤを植えた。所詮プランターだから大きいものはできないと思っていたが、手のひらより少し余るくらいのものがいくつかできた。沖縄に嫁いだ姉がいる母にゴーヤチャンプルのレシピを聞こうとしたけれど、たまたま電話に出なかった。待てなかったのでクックパッドかクラシルを見て作ったゴーヤチャンプルは、美味しくできたと思う。彼もご飯をお替わりしていたし。
しばらくゴーヤチャンプル三昧だった。しかしある日何気なくつけていたバラエティ番組で、沖縄出身の芸人が「本土の鰹だしでは本当のゴーヤチャンプルーにはならないんスよ。だいたい、チャンプルじゃなくてチャンプルーだし」と興奮気味に語っていた。じゃあどうやって味付けたらいいの? スタジオの出演者も視聴者も同じことを思ったはずだ。
その瞬間、テレビ画面がサッカーの試合に切り替わった。私はワールドカップ予選より、沖縄の味の秘密が知りたかったのだけれど。
バイトの帰りに駅ビルのKALDIに寄ったら、チャンプルーのもとの棚だけ空っぽだった。Twitterでは沖縄料理の長寿の秘密がトレンド入りしていた。私がチャンプルーのもとを手に入れられたのは一か月後だった。
彼はそのゴーヤチャンプルーを本当にたくさん食べた。
料理を作る人ではなかったのに、彼がキッチンに立つ頻度が増えた。同じように授業も課題もあるのに、私ばかり料理をしてきたから、最初は有り難かったし嬉しかった。YouTubeを見て研究しているのか、調理にかかる時間も切った野菜の薄さも短時間で見違えるほどになった。
彼の料理の味付けは、全部あの粉だった。
チャーハンも野菜炒めも卵焼きも。もしかしたらカレーの下味もおでんも。
なんとなく調味料を置いてある場所に、チャンプルーのもとの袋が幾つも突っ込んであるのを見て、さすがにギョッとした。私がたまに料理を作っても、「変に甘い」と言って箸を付けなくなった。私がよそった白ごはんに、チャンプルーのもとと鰹節だけかけて満足そうにしていた。
母のレシピを聞くまで、ゴーヤチャンプルーは作らない方が良かったのだろうか。それとも、ゴーヤを植えなければ良かった? 私がKALDIに頼らなければ……。でもあの魔法の粉に出会わなくても、彼の舌は別の何かに魅了されて、いつか私のもとを去って行ったのではないか。
彼は一浪して入った大学を辞めて、私たちの部屋からある日忽然と消えた。行先はあの島に決まっている。次の夏が来る前に、私はもっと大学に近くて部屋数の少ないアパートに引っ越した。
今でもスーパーでゴーヤを見る度、私の胸に二つの気持ちが蘇る。彼が本場で幸せに暮らしているならそれでいいという気持ちと、本場の味と粉の味の違いに幻滅して、失意のまま地元に戻っていたらいい気味なのにという気持ちと。
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