異世界と変人コレクション

 「こちらあみ子」が白眉であったので「むらさきのスカートの女」を読んだ。

 読むには読めた。二時間もかからずに読めたと思う。でもモヤモヤが残った。こちらあみ子がまだ洗練されていないというネットの評をどこかで見たが、むらさきのの方が良くないと思った。

 近年、純文学の一つの潮流として「変人コレクション」というべきものがある。身近にいる、一つか二つ螺子の取れたちょっと変な人と、その人よりは凡庸な主人公を主軸に置いたような話である。ちょっとまえに芥川賞を取った「きことわ」もそんな感じだったし、主人公が変人というパターンだが「コンビニ人間」もそのくくりに入るかもしれない。「むらさきのスカートの女」もこれだと思った。吉田 知子「お供え」の系譜なのかな。うーん。

 変人コレクションで一番衝撃的だったのは、ある現実味の無い家族の話だった。内容はうろ覚えなのだが、その家族はお互いの関係性が非常に希薄で、住む家にも頓着していないのであちこち壊れたり不用品が沢山あったりする。その上彼らは突然庭で物を燃やして踊り出すのだ。全く受け付けなかった。その作品を読もうと思ったのは何か賞を獲ったからだったはずで、なぜこんなクソつまらない、作者の頭の中にしか存在しないようなぺらぺらな人物達の話が受賞するんだと愕然とした。

 変人を書くのは多分楽だ。物語に変人を一人置くことで、周りの人物や、社会の歪みを簡単に浮かび上がらせることができる。変人の不可解性が物語に深みや余韻を生む効果があるし、実際には作者が書ききれないだけだとしても、「だってこの人変だし」とうまくぼやかしてもくれる有難い存在なのである。

 でも、変人のいる世界の規律は、現実とは遊離しているのだ。読者は珍獣を観察する楽しさを感じることはできるし、あまり読書に親しんでいない人なら「なんだか分からないけど深い気がする」「先が知りたくて一気に読んだ」という感想になるが、結構な読書家なら「もう変人コレクションはお腹いっぱい」と思うのではないだろうか。蛇足だが、普通の人に実は不可解なところがあったという人間の深淵を書くような作品と、変人コレクションは似て非なるものだ。登場人物の偏り具合を、現実的に有り得そうな世界のまま、非現実的な範囲にしてしまう欲求に抗わないといけない。

※太線部、世界全体を全く非現実な方(例えばSF)に振ってしまうと、変人コレクションとは別の端正さを帯びる。


 異世界もの、悪徳令嬢ものばかり台頭するラノベ市場を、純文学は笑っていられないと思うのだ。


 しかし、この変人コレクションというジャンルは選考委員に好かれている。なぜだ。一見地味なテーマを深く書ける人が減っている(クリエイターの質が下がっている)のか、そんな地味なのは流行らないか、(夏目漱石によって)やりつくされているということなのか、選考委員の読む能力か教養かプリンシプルか純文学以外の世間一般への感度が低下しているのか(もちろんそうであるなら、クリエイターのそれも連動して下がっているだろう)。あるいは、どぎつくてものすごく変わった話じゃないと、映像作品や異世界もの、SNSなどの他のコンテンツに勝てないと思うんだろうか。

 変人コレクションは、作者の人格の一部だから書きやすいというのもあると思う。そういう意味で、私も変人コレクションを書ける素地はあるんだろう。でも、私はこういう作品を書きたい訳じゃないなあと思った。

 ちなみに、こちらあみ子の主人公は超変人だけど、これは変人コレクション小説ではないんだよなあ。説明が難しいけど。結局、うまく書けたかどうか、狙いすぎて嘘くささがあるかどうかということなのかな。

 むらさきいろのスカートの女は、別にいうほど酷評する作品ではなかった。こういう風に人の心を揺さぶるのも悪くない。でも私は、もうちょっと読後感のよいものを目指したい。この本の書評に、「読んだ後で、ほんの少しでもいいから世界が変わって見えるのが読書の楽しみであるべき」というものがあって、私もそれがいいなと思う。めちゃくちゃ難しいと思うけど。

 これまで、心を掻き立てられる作品に遭う度、いつも劣等感などのマイナスな感情の団子に飲まれていたが、他の人の作品を読んで感情の団子を細かく分解して認知することが出来るようになったのはいいことだと思う。段々目指す方向性が固まってきた。言語化万歳。

 

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