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掌編 マスクとハンドル

 十八で免許を取ってから、デートでもハンドルを握るのは私だった。私の恋人になる人はなぜか皆運転が苦手で、私はしょうがないなあといいながらも運転するのが嬉しかった。
 だからあの人に会った時、これがそうか、と思った。助手席に座るタイプの女の子達が言う、運転している彼の腕や手の甲に浮かび上がった血管がセクシー、っていうやつ。私はあの人の腕などの様子をそこまでセクシーとは思わなかったけれど、歴代の彼氏には私の手が、あるいは車庫入れの時車の後方を振り返る仕草が、どう見えていたのかということは少し気になった。私はまだあの人に完全に恋をしていた訳ではなかった。

 車内で、左耳にだけマスクをかけて運転するあの人が好きだった。車外では、こんな風にマスクを外しはしないだろう。自宅ではマスクを外すだろう。つまり半分マスクをひっかけたままにしているのは、外出と家の合いの子の時間しか見られない。これは私だけのものだと思った。マスクをそのままにして行為に及んで欲しいと頼んだ。でも正面から見たその姿は間抜けで、私は大笑いしてしまってムードが台無しになった。あなたは仕切り直しに時間がかかった。

 うたかたの恋人が、男の自宅付近の街に「来ちゃった♡」をするのは最大のマナー違反だと思っているから、武蔵小杉付近には近寄らないようにしていたのだけれど、吉祥寺でばったり会ってしまったのは不可抗力だった。あなたが私に気付いていなかったのは幸いだった。よくドラマで、「私に会ってくれない日曜日に、家族の前ではあんな笑顔を見せてるなんて」って描写がある。奥さんの隣にいたあなたは笑顔ではなかった。私がコンドームを忘れていった日に、私がわざとそうしたことを見抜いた時の顔をしていた。備え付けのコンドームを使えばいいだけの話だったのだけれど。幸せそうにしていてくれた方が良かったと思った。

 そして私は以前より片耳マスクに魅力を感じなくなった。あなたのマスクの表面が毛羽立っているのに気付いた。未だに不織布マスクを洗って再利用しているのだろうか。あるいは鼻や口の周りの蒸気が人より濃い? くだらない理由で恋に落ちたから、恋が醒めるのもくだらないきっかけからだった。やっぱりハンドルは自分が握っていた方が性に合っているのだった。

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