通貨 (第40回太宰治賞一次通過作)
〈1〉
夏休み後半の楽しみは、岐阜のおばあちゃんちに泊まることだった。お母さんは毎年、すぐ上の姉、郁美おばさんと示し合わせて同じ時期に帰省することにしていた。私は、郁美おばさんが大阪から沢山ぶどうを持ってきてくれることと、美穂ちゃんや亮介くんと遊べるのが楽しみだった。美穂ちゃんは私と同い年、亮介くんは二歳下で、おばあちゃんちには一歳下の典子ちゃんといういとこもいるので、大抵は四人で遊んだ。
私たちの寝る場所は仏壇の部屋で、夏なのに妙に分厚いお客様布団をあてがわれた。いくら私たちが子供だけで一緒に寝たいと頼んでも、典子ちゃんは二階で良子おばさんたちと寝ると決まっていて、一度も要求は通らなかった。また、日中典子ちゃんはよく良子おばさんやおばあちゃんに台所に呼ばれた。
おばあちゃんのうちの子である典子ちゃんと、外の子である他の三人とはテンションも、周りの大人からの扱われ方も違っていて、典子ちゃん自身、日中遊んでいてもどこか一線を引いている感じがあった。とはいえそのことはかすかな匂いとして感じ取っただけで、私たちは都市部から岐阜の山沿いの町にやって来た、お客さん扱いされる子供として、基本的には我がまま放題に過ごした。
美穂ちゃんと亮介くんはよく喧嘩をした。口喧嘩だけでは収まらず、取っ組み合いの喧嘩になることもしばしばあった。口では勝てない亮介くんが最初に手を出すことが多かったけれど、亮介くんの「ボケェ」や「くそババア!」に美穂ちゃんがぷつんと切れてしまうこともあった。私も、美穂ちゃんとゲーム機の取り合いをしたり、描いていた女の子の絵を「そんな人間おらん、足も目もおかしいやろ」と言われて「そっちだって下手くそじゃん」と言い返したりしてヒートアップすることはあって、その都度お母さんや郁美おばさんに止められたけれど、身体に触れる喧嘩に発展したことはなかった。
畳の上で仰向けになった美穂ちゃんに亮介くんが馬乗りになって髪をめちゃくちゃに引っ張る。その手を避けようとして振り払った美穂ちゃんの指の先が、亮介くんの眉間辺りにヒットした。
「アイチイィッ」
ネズミが出すような声をあげて亮介くんがくずれおちた。絞り出すような声で泣き始めた亮介くんの顔が、どんどん真っ赤に染まっていく。二間をつなげて居間にしている、テレビのある方の部屋でおしゃべりしていた郁美おばさんがどすどすとこっちにやってきた。
「二人ともええ加減にせえ!」
美穂ちゃんが何か言おうとする前に、郁美おばさんはバシンと美穂ちゃんの頭をはたいた。すでに大泣きしている亮介くんと一緒に、美穂ちゃんも割れるような声を出して泣き始めた。
「もー、奈々ちゃんが引いとるやろ!」
確かに引いてはいたけど、それは普段喧嘩が始まっても「障子の周りだけはやめてや」と興味なさげだった郁美おばさんが、美穂ちゃんを簡単に叩いたからだった。おばあちゃんのうちに滞在するのも今日で四日目だから、身近で繰り広げられる激しい肉のぶつかりあいには慣れっこになっている。お母さんは郁美おばさんに言っているのか、私に言っているのか分からない顔の角度で、
「うちはこんな激しい喧嘩しないから、面食らってるんだと思うわ」と言った。
「よその家でもこんな喧嘩ばっかして恥ずかし」
「そりゃ二歳差だもん、私たちの時もそうだったでしょ」
私はふっとお姉ちゃんの方を見た。お姉ちゃんは、お母さんや郁美おばさんのさらに奥に座って、午前中ずっと夏目漱石の「こころ」を読んでいる。お姉ちゃんの正面にはおばあちゃんが丸い背中をますます丸くして座っていて、こちらも何も話さないので、くすんだ紫色の置き物のように見えた。
お姉ちゃんはなんで岐阜に付いてくるんだろう。今年は特にそう思った。お父さんと二人で家に残っても洗濯や料理をやらなきゃならなくて大変そうだし、昼間お姉ちゃんを一人にしておけないとお母さんが言うのも分かるけれど、本なら家でも読めるのに。
明日は名古屋に帰るという土曜日、典子ちゃんのお父さんの高広おじさんが、山の奥の方にある沢に連れて行ってくれると言った。
「あなた、ここに来てもずっと本を読んでばっかりでしょう。せっかくだから行っておいで」
「……うん、わかった」
くぐもった声でお姉ちゃんが言ったのを聞くと、お母さんははやくはやくとお姉ちゃんに本を閉じさせ、土間の方に行かせようとした。母は、最後に郁美おばさんと喫茶店のモーニングに行きたいのだ。
高広おじさんは農業と別の仕事を掛け持ちしているから普段あまり家にいないが、時間ができると進んで子供たちの相手をしてくれた。
「沢ガニようけ取れるとこ教えちゃる。夜は唐揚げにしよ。うまいぞ」
「沢ガニ取りってザリガニ釣りみたいなもん? 持って帰って育ててもええ?」
「ええよ。でもちゃんと餌やらんと共食いするで」
「うえー」
おじさんの言葉を聞いて、舌を出して嫌な顔をしたのは美穂ちゃんだ。
「だからホントは全部食べたほうがいいんよ」
典子ちゃんは涼しい顔で言った。
亮介くんは家から持ってきたプラスチックの虫かごをぶら下げて準備万端だった。なんとなく負けられない気分になって、初日の川遊びに使ってから土間の隅に置いたままだったビーチサンダルを手に持つと、おじさんは「そんなん危ないであかん、すべるで」と私を制した。
軽トラで上がれるぎりぎりのところまで山を登り、そこからは徒歩だった。子供のこぶしくらいある石がごろごろしている道は、山の斜面に対してほとんど平行になっていて、麓側は濃い艶のある緑の葉がついたみかんの木の列が延々と続いていた。ブランド名が付いているわけではないけれど、この辺りはみかんの産地だ。
私たちは高広おじさんに促されて、コンクリ製の短い橋のすぐ脇から沢に降りた。典子ちゃんも勝手知ったる風にひょいひょいと沢の脇の岩を飛ぶように移動し、更に沢の上流に進む。その後が亮介くん、私と美穂ちゃんで、お姉ちゃんは一番うしろから付いてきていた。
沢ガニ取りは賑やかに進んだ。沢は深いところでもふくらはぎくらいの深さしかなかった。石をどけて、その下に潜んでいるカニの甲羅を後ろから手で掴むのが基本の取り方だと高広おじさんは言った。沢ガニを見つけやすいのは沢の真ん中よりも岸の方で、水がひたひた浸っているくらいの場所にある石を動かすと、大抵その下に二、三匹のカニが潜んでいた。
亮介くんはカニを捕まえるのと同じぐらい、石をひっくり返すことそのものに夢中になっていた。水が跳ねるのが面白くて沢の中ほどの石ばかりひっくり返していたが、その度に砂が巻き上げられて周りの水が濁るので、美穂ちゃんは「カニ取るつもりやないならやめえや」と悪態をついた。
私も夢中で沢ガニを探した。お尻の辺りからひたひたと湿気が上がってくるのに気付いていたが、キュロットなんて濡れても構わないと思った。しゃがんだ姿勢のまま、ざりざりと横移動していくと、下にカニが隠れる場所がありそうな、程よい大きさの石が目に入った。でもしゃがんだままでは持ち上げられるか微妙なところだ。私は立ち上がり、右足を一歩動かした。着地した岩は冷たい水の中でひどくぬめっていた。
あっ、やばい。
私の視界が九十度横倒しになった。下はあの石だ!
次の瞬間、私の頭はやわらかいなにかに当たった。目を開けると、それはお姉ちゃんの太ももだった。
「ナイス、間一髪や」
高広おじさんは明るい声でお姉ちゃんの反射神経を称えたけれど、顔はこわばっていた。一重で、普段は一本線のようなおじさんの目が大きく見開かれていた。大怪我になるところだったんだと思ったら、私の足はぶるぶると震えはじめた。
「奈々、大丈夫?」
「……うん」
「おじさんも言ってたでしょ。川の石は滑るから気をつけて」
そういうとお姉ちゃんは私の後ろで、私を助ける前と同じ調子でまた沢ガニを探し始めた。
帰りの軽トラでは、全身びしょびしょの私と亮介くんは荷台の一番うしろに、残りの三人は運転席側に背をもたれさせるように座った。どっちが沢ガニを多く取れたか言い合うのに飽きた後は、もう夏休みも終わりだとか学校が始まったら運動会だとか、思いついたことをだらだらと話した。風が吹いていて、私と亮介くんは叫ばないと美穂ちゃんたちに声を届けられなかった。
お姉ちゃんは年下のいとこの話に頷く素振りをしながら、荷台の外をぼんやり見ていた。私の肘には大きな擦り傷が出来ていて、じんじんと痛みはじめていたけれど、これだけで済んで良かったのだということはよく分かった。私はお姉ちゃんに、いつもつまらなさそうだと思ってごめんと心のなかで謝った。
これが、お姉ちゃんについて私があまりよく分かってないんだな、と思った最初の記憶だったと思う。
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