希〇念慮を耐える練習その1
見捨てられた。裏切られた。
そんな感情が全身を支配している。
こういう時、たいてい体中が痺れ、過呼吸に苦しみ、
疲れ果てて横になっては、また痛くなって起き上がる。
座っても長時間は維持できない。また痛み出すからだ。
逆に、〇にたくなるぐらいに苦しいときは、
自分の抱えている認知の歪みやそのメカニズムを
分析できるチャンスでもある。だから文章にしてみようと
キーボードをたたくことにした。
「どうせ自分はだれからも好かれない」
→したがって、自分は罰を受けなければならない。
「どうせ自分はどの職場でも役に立たない欠陥品だ」
→したがって、自分は罰を受けるべきだ。
「自分さえ〇ねば喜んでくれる人間が世の中にはたくさんいる」
→だからこそ、僕は〇ぬべきだ。自分を〇すべきなのだ。
こういう時、たいていこういう思考だ。
むしろ、この自罰的な思考で固まってしまい、一種の思考停止状態となり、
ただただ恐怖と嫌悪という毒素が、心の循環器を回り続けるのだ。
しかし、僕はいったい何を怯えているのだろう?
誰からに対して、怯えているのだろう?
それは、世間?この国に生きるすべての人々か?
いや、きっと違う。
自分が怯えているのは、自分が離れると決断した、
自分の毒親たちそのものだとしか考えられないだろう。
ただでさえ、
毒親の価値観=世間の価値観だと
体罰と過干渉を持って教え込まれてきた。
それが世間の常識だと。
僕が学校や習い事で出会った人たちの価値観を話しても、
自分の家の中ではことごとく親に否定されてきた。
人間扱いされなかった。常にキチガイだと言われ続けたのだ。
自分が間違っているのだと、常に思い続けなければ、
無理やり、納得させなければ、
それこそ、〇されていたかもしれない。
だから、心を、感情を、無にする他なかった。
しかし、こんなことをSNSなどに書いたとて、
「お前のような苦労なんて、かわいいものだ。」
「偉そうにしやがって。〇にたければ勝手に〇にやがれ!」
そういう心無い言葉が帰ってくるのが目に見えてしまう。
だから、今までnoteでさえも発信ができなかった。
しかし、今回は違う。希〇念慮に苦しみながら書いたこの文章を、
敢えてnoteに掲載していこうと思う。
どんなに裏で誹謗中傷を書かれようとも、だ。
これは、僕自身の成長のために書いている文章だ。
僕の人生を100%知り得もしないあんた達に
お説教を言われる筋合いなどない。
僕は自分の感情を自分で制御できる大人になりたい。
だから、悩みながらキーを叩いているのだ。
…はぁ。ひととおり書いたら疲れて安心感が出てきた。
今日は寝よう。明日は友達と大事な約束があるのだ。
おやすみ。
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