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モノクロの世界

 どんな些細なことでも、何気ない思い付きでも、形にしなければ、発信しなければ0(ゼロ)なのだ。頭の中にアイデアがあるからと言って、それを自分のものだと主張はできないし、他の人から見ることもできない。それは、存在していないのと同じだ。

 だから、僕はこのnoteを始めようと思う。僕は輝かしいものを持っているわけではないけど、出力しなければこの世にないのと同じだから、書き留めておきたいのだ。

 一応、自己紹介らしきものをしておくと、僕はウェブ小説家であり、同人ゲーム制作者であり、就職活動中のアフィリエイターでもある。そして、そのどれもが、小さな成功を収めてはいるが、大きな成功とはいえないレベルの、中途半端な存在だ。

 だから、僕は自分のことを胸を張って「小説家です」と言えるかというとそうでもないし、「人気ゲーム製作者です」とは口が割けても言えないのだ。そういう曖昧な存在が、僕である。


 曖昧な存在のまま、不確かな存在のまま、繰り返す憂鬱な日常に心を蝕まれながら生きている。人間は、刺激がないと考える力が鈍ってくる。思考はネガティブな暗い闇に覆われて、将来への不安は積もってくる。まるで僕だけが、この暗闇で苦しんでいるかのような錯覚を覚える。そんな息苦しい毎日だ。

 人というのは慣れるもので、どんなに面白い小説や漫画もゲームも、時がたてばその刺激に慣れ、飽きてしまう。あんなにワクワクした画面の向こうの冒険は、今や数値を弄ぶだけの、コンテンツを消化するための行為となっている。純粋だったころの気持ちにはもう戻れない。

 果たして、こんな状況に陥っているのは僕だけなのだろうか。自分だけが灰色の景色を見ているのは、「この花は赤だ、いや桃色だ」とはしゃいでいる他人に、ひとり取り残されているような、寂しく侘しい気持ちになる。

 モノクロの世界。その中に僕はいる。

 美味しいものを食べて、舌は美味しく感じていて、「おいしい」と言葉にする行為はできる。でも、その気持ちはどこか明後日の方向を向いていて、その言葉は経験から出てきたものであり、本当の感動ではないと気づく。物事を全てスマホ越しに見ているような、現実感のなさが浮き彫りになる。

 それは第三者視点で物事を見ているコンピューター・ゲームのような。自分という存在が、さらなる外殻に覆われているような。誰にも伝えることのできない、誰にも理解されることのない感覚だけが、僕を覆っているのだ。

 それは例えば脳の中にもう一人の自分がいて、自分の体を操作しているような、不思議な感覚。自分が自分でなくなるような、乖離の感覚。水中にたゆたう、ひとひらの紙人形のような、頼りなさげな浮き沈みを繰り返しながら、僕は生きている。


 僕はこのnoteをしたためることによって、何を達成しようということはない。ただ、自分の内のよく分からないもやもやを、もやもやのままにせず形にしておきたいと感じて、その衝動に従ったまでである。

 どんな些細なことでも、何気ない思い付きでも、形にしなければ、発信しなければ0(ゼロ)なのだ。そして0ではなくなった以上、そこに形が生まれ、世界に存在するようになる。それは、水面に走るほんの小さな波かもしれないが、その波がどう影響するのかは、誰にも分からないのだ。

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