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自分の感受性くらい


私は全く政治に関心がなかった。

違和感を感じ出したのは東日本大震災辺りから。
震災で全国から集まった募金を一部かどれくらいか知らないけどオリンピックにまわすと言った大臣のニュースが一度だけ流れたことがあった。
え?っという疑問が拭い切れなくなってそこから山のように疑問が噴き出てきて今に至っている。日々やり切れない気持ちになる。
今回の能登地震の政府の対応についても自分も被災したらしたらこんな風になるんだろうなと思うし、日々いろんな疑問が湧きまくっている。

毎日自分の生活の中だけでも悩みが尽きない。
それプラスここ数年で政治不信も悩みに加わってきている。

ゆっくりと沈んでいく船に乗っているような気分になっていたけど、この船は既に沈んでるんじゃないかとも思いだした。

それでも、まるで別世界を生きてるかのように全く政治に関心を示さない人がまわりに意外といたりする。私の家族もそんな感じだと思う。

○まさかこの先、この日本がそんな大変なことにはならないだろう。
○毎日の自分の生活だけで精一杯。考える余裕なんてない。
○言ったところでどうにもならないなら考えても無駄。
○そこまで今の自分の生活に支障を感じてないから別に大丈夫。

こういう感じかなぁと想像してみる。
以前の私がこんな感じだったように思うから。

考えない方がどう考えても楽なのに、考えなかった頃にはもう戻れない。

同じように感じられないことを非難してるわけでもなく、分断するわけでもなく、いいなぁと思う。そこを知っているからいいなぁって。
自分が生きる日々だけを見ることができたら、この、時折りひどく泣きたくなるようなストレスも少しは軽減するんじゃないかと思う。

遠い国で起こる戦争も、昔は遠いことだったのに、自分の中で考えない言い訳もできていたのに、今では怒りしか、痛みしか出てこない。

自分の感受性を持て余す時がある。
自分の感受性に孤独を感じ、しゅんとしたときは、茨木のり子さんのこの詩を読む。
でも、持て余してもしゅんとしても、
この感受性のままいつか死んでも
生まれ変わったらまた
やっぱりこの感受性を選びたい。

「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


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